経済的奴隷
intro:
数年前に「楽して儲かる方法」とかを謳った商売が流行りましたが、それと共にインターネット上では
「経済的自由」
という言葉が流布していました。
働かずに暮らせるだけの不労所得を得ることで、会社とか人間関係に縛られずに暮らそうという意味で使われていた様です。
で、当時の私はその言葉を目にする度に、辟易していたことを覚えています。
「自由」という言葉が、誰もが持つ心の弱さの中で別の何かに摩り替わってしまっていることに。
でもね、仮に大金を手にしても、その手のキャッチに飛びつく人は、自由なんて得られないんですよ。
むしろそれは、経済的奴隷への第一歩なのかもしれません。
main:
例えば、「仕事上、新たな手帳を使う必要性が出てきたAさんとBさん」を想定してみましょう。
で、手帳を買うことの出来る余裕資金は、Aさんが500円、Bさんが5万円です。
そう、Aさんはとっても貧乏サラリーマン、でもBさんは実家から会社に通うけど家には生活費を入れなくても良い気軽なサラリーマンなんです。
さて、それではAさんとBさんでは、どちらが経済的に自由なのでしょうか?
恐らくAさんの資金では、「手帳」と呼べる様な代物を購入することは難しくなりますから、今使っている手帳を使いまわすか安物のノートで代用するハメになるでしょう。
仮に500円未満の手帳を見つけても、そこには「色んな手帳を選ぶ」という選択の余地はありません。
う~ん、不自由ですねぇ・・・
それに比べて5万円もの資金があるBさんには、多くの選択肢が存在します。
今回の仕事の内容にあった仕様の手帳を選びつつ、また好みのデザインを探すことが出来ます。
1500円程度の手帳で済ますこともできますし、フランクリンの手帳でも買って計画的に目標達成を目指すことだって可能です。
仕事内容にあわせて色を考えたり、手帳カバーの革の手触り感なんかも気にして手帳を選ぶことだって出来るんです。
Aさんから比べたら、Bさんは圧倒的に多くの選択肢を持っています。
つまり、その分だけ自由だということになるでしょう。
でも、それは限定的な意味での自由、消極的な意味での自由でしかありません。
選択肢を多く持つということは、確かに自由ですが、それは限定的な意味においてです。
だって、選択肢が沢山あっても、Bさんが自由に振舞えるとは限らないからです。
沢山の選択肢の中では、色んなものに目移りして選択に迷ってしまうかもしれません。
より良いものを選択しようとして、逆にもっともらしい宣伝に踊らされ、不必要な機能や仕様まで持った手帳を購入するかもしれません。
資金に余裕がある分、他人の目を気にして、自分の見栄を満たすことを兼ね備えた手帳を無意識に選ぼうとしているかもしれません。
で、そんな状態のどこが自由なんでしょうか?
何か別なものに縛られてしまっている状態のどこに、自由があるというのでしょうか?
結果的にBさん自身は手帳を購入してご満悦でも、他人から見れば、
「別にあんな手帳いらなくね?」
と一笑に付されるかもしれません。
Bさんが自由であるためには、まず“何か”に縛られずに自由に発想することで、沢山の選択肢を見つける必要があります。
資金に余裕があると価格や機能の高いものの方へだけ選択肢が広がっていきがちです。
でも、実際はAさんの様に、今使ってる手帳で済ましたり、100円ノートで代用しても十分だったりするかもしれません。
「え?こんな発想もあるんだ!」なんて具合に、他の人にはなかなか見つけられない選択肢を見つけ出すことだって、素敵なことです。
見栄や怠惰心、常識などに縛られず、あらゆる可能性から選択肢を見つけ出す能力。
それが、自由を手にするために必要なことの1つです。
また、自由であるためには、見つけた選択肢の中からより最適なものを選び取る能力が必要になります。
多数の選択肢を持っていても、どーでも良い様なモノゴトしか選択できなければ、意味なんてありませんから。
見栄や怠惰心、常識などに縛られず、自分にとって最適な選択肢を選び取る能力。
それが、自由を手にするために必要なことの1つです。
そして、さらに付け加えるならば、選択したモノゴトをどれだけ活用できるか?ということも重要です。
せっかく最適なものを選んでも、使いこなせなければ意味がありません。
使いこなせてこそ、初めてBさんは自由に振舞えていることになるわけです。
要するに、自由であるためには、複数の選択肢を持てる環境にあっても、
- 選択肢を見つけ出す能力
- 最適なものを選び出す能力
- 選択したものを使いこなす能力
がなければ、決して自由であるとは言えないのです。
これらの能力を持つことを、消極的自由に対して「積極的自由」と呼びます。
さて、ここで今一度、振り返ってみましょう。
先に、「限定的」「消極的」だと説明した自由とは、“より多くの選択肢を持つことが可能な状態”のことです。
手帳を買うことに対して、Aさんには極わずかな選択肢しか残されていませんでしたが、Bさんは多くの選択肢を持つことが可能です。
しかしそれは、可能性の問題であり、自分自身が自由だというよりは、そういった環境にあるかどうかだけの問題です。
仮に大金を手にする力が自分にあったとしても、それを使う段階においてはただ“より多くの選択肢をもつことが可能な状態”でしかありません。
そんな中、先の能力、つまり積極的自由を持ち合わせていなければ、私達は与えられた環境に振り回されてしまうだけです。
欲や見栄に惑わされ、無知や無謀さに足を引きずられます。
つまり、安易に不労所得や大金を手に入れることで「経済的自由」を得ようとしても、実は自由どころかそれらのお金に振り回される奴隷となってしまう・・・
そう、これが経済的奴隷になってしまう理由です。
より多くの選択肢を持つことが可能な状態が自由だと思うのは、お門違いです。
そんな可能性を持っただけでは、人は逆に不自由になっていきます。
逆にAさんの様に多くの選択肢を持てない環境にいた方が、別な選択肢を探したり、効果的な選択肢を選び取ろうとして、自由に振舞えたりすることだってあるんです。
アメリカでは、宝くじの高額当選者の9割が破産するそうです。(きちんとしたデータを見て言っているわけではないので断言は出来ませんが)
スターと呼ばれる人達が売れなくなっても普通の暮らしが出来ずに破産してしまうケースは後を絶ちません。
大金が欲しいのは普通、誰でも同じことです。
むしろ、金銭欲を持つことは大切なことですし、それによってこの国の経済は回っています。
しかし、お金が欲しいのと経済的自由が欲しいのとでは、大きく違います。
単に「楽ができて、何となく欲しいものを手にできて、何の不安もなく・・・」といった自分の怠惰な心を、「自由」とかいう一見綺麗な言葉に摩り替えてしまうのは、自由になるのではなく奴隷になること。
そう心得ておくだけでも、ちょとは自由に生きられるかもしれません。
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post by ノリユキ at 11:22 | コメント・トラックバック(0)