2012年3月9日(金) [ にんげん・こころ ]
性格なのか、体質なのか知りませんが、何か失敗したり上手くいかなかったりすると、自分を責めちゃう人っています。
まあ、一時的にヘコむ程度には構いませんが、必要以上に自分を責めちゃうと、どんどん苦しくなっていきます。
だからでしょうか?
ポジティブに振舞おう!なんてことが多々言われたりするんですねぇ。
で、先日こんなコラムを読みました。
「Business Media 誠:ちきりんの“社会派で行こう!:他人のせいにする能力」
何か問題が起こった時、「運が悪かった」「あいつのせいだ」と思う人と、「自分のせいだ」と思う人がいます。一見、後者の方が謙虚で好感が持てそうですが、ちきりんさんは自分を痛めつけ過ぎないように「理由を外に求めること」も大切だと説きます。
(上記リンク先の冒頭分より)
なんでも、「Chikirinの日記:2005-12-28 自分を守る能力」を再構成して転載したやつだとか。
随分と古い記事使いましたね、まーどーでもいーですが。
で、上記コラムを要約すると、
「自分を必要以上に責めないために、自分をかばう外責(自分以外の何かを責める)能力は侮れないですよ」
というお話をしています。
う~ん、そうですねぇ。
言わんとすることは、分ります。
自分をかばうために他者を責めるというのは、もちろんお門違いでしょうが、それを承知であえて、1つの視点を提起しているんでしょう。
自分ばっかりを責め続けて、どんどんと追い込んでしまうくらいなら、いっそのこと他人とかのせいにしちゃった方が楽なのかもしれません。
しかし、それを言ってしまえば、根本的なところを見失ってしまいます。
そもそもこれって、自分自身を責めなければ良いだけの話です。
自分を責めないのであれば、他者に責任を転嫁する必要なんてありません。
おまけに、
自分を責める=上昇志向の裏返し
他に責任転嫁=自己保身(上昇志向ではない)
ということで、基本構造が全く違うんですね。
構造の全く違うものを置き換えたところで、実は何も解決には繋がりません。
むしろ、他者との関係を壊し、自分自身の中までも壊しかねません。
なので、自分自身を必要以上に責めないためには、他の適切な対処法が必要になるわけです。
ここでちょっと、「自分」というものを分解して考えてみましょう。
果たして「自分を責める」というのは、一体自分の何を責めているんでしょうか?
自分の外見?
私のハゲ頭?
違いますよねぇ。
自分を責めるという行為は、基本的に自分の「内面」を責める行為です。
自分の性格というか、自分の中の何となく・・・そう、何となくな部分を自分自身で問い詰めています。
しかし、考えてみてください。
失敗や過ちというのは、その何となくな部分ではなく、自分の「行動」が原因です。
自分の行動が、過ちを生み出しているわけです。
だったら、自分の内面を責めたって、意味ないじゃんっ!
自分をどんなに責めたところで、そこには意味も価値もありません。
問い詰めるべきは、自分の中身ではなく、自分の行動です。
ではここで、自分の「内面」と「行動」について、その構造をもうちょっと見ていきましょうか。
例えば、巷ではよく、
「他人は変えられないが、自分は変えられる」
なんて言います。
でも、それってホントですか?
自分自身だって、なかなか変われませんよねぇ。
自分の内面って、そう簡単には変わりません。
子供の頃ならまだしも、大人になってからでは至難の業です。
しかもその自分の内面って、さっきも言いましたけど、自分の中の何とな~くな部分であって、どこか曖昧で捉えようがありません。
で、そんなもの、突付いたところで、一体なにになるんでしょう?
突付いた分だけ痛いくせに、一体どこを突いているのかも曖昧ですし、しかもその何とな~くな部分は何も変わりません。
だから、いつまで経っても、突付き続けます。
皆、自分の内面にスポットを当てるから、いつまでもクヨクヨ悔やむんです。
しかし、自分の行動なら、どうでしょう?
行動って、
「Aをやったらその次にB、そして最後にC」だとか、
「右足から入る」だとか、
「スウィングする時に、軸足がブレている」
とか、とっても具体的です。
おまけに、
「今まではAの次にB、Cってやってたけど、まずはBをやってからA、Cとやった方が効率が良さそうだ」とか、
「いつも右足から入ってたけど、今日は左足から入ってみよう」とか、
「スウィングする時に、もうちょっと軸足に重心を乗せてから」とか、
ほら、直ぐにはできなくとも、何度かやれば出来るようになりそうです。
そう、変えられるんです。
自分の行動って、何となくな自分の内面とは違って、具体的で変革可能です。
おまけに、失敗や過ちの原因そのものでもあるわけです。
おぉっ!
何だか、大切なものが見えてきた様です。
いいですかい?
自分の内面を責めたところで、そこには意味も価値もありません。
問い詰めるなら、自分の行動を問い詰めるべきです。
そして、人間は、突付けば変わるものを、いつまでも責め続けることはできません。
だって、変わるんですから。
自分の行動を問い詰めれば、結局その先には
「じゃあ、ここをこうしてこうやって・・・」
と変革することに行き着きます。
そしてそれが、「改める」という行為であり、世間では「カイゼン」とか「修正」「上達」とか呼ばれます。
要するにね、
自分を責めたつもりが、いつの間にか「攻める」行為に変わっていくんですよ。
何も変わる気がないのであれば、自分を責めるだけ時間のムダです。
特に悩む必要もないじゃないですか。
メシ食って、屁こいて、寝てしまいましょう。
ps:
奇しくも上記コラムの元ネタが投稿された同じ年、そう言えば私も自分自身を必要以上に責めない方法について書いてました。
「悪いの私じゃない。悪いの私のこの手やクチ」
ま、いわゆるメタ認知ってやつをどうするか?ってお話なんですが、時間のある時にでもご覧になって、思いっきり感動してください。
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2012年2月10日(金) [ あたま・ノウハウ | にんげん・こころ ]
ビジネスとしてブログやメルマガなどを書いてみたり、リーダーとして部下に大切なことを話してみたり・・・
モノゴトを相手に伝える場合、特に相手に納得してもらおうとする場合、1つのテクニックとして
「言い切ること」
が大切だということは、皆さんもどこかで聞いたことがあるでしょう。
もちろんこの言い切り型は、緻密な議論を交わしたり論文を書く際には不向きですが、例えばこちら側が相手にモノゴトを教えたり指南する場合には、とても有効です。
「~だと思います」
「~ではないでしょうか?」
という感想や同意を投げかける言葉では、どこか曖昧さや不安定さを残します。
ですから、そんな言葉で締めるよりも、
「~です」
「~なんです」
と断定して言い切ってあげた方が、相手に力強く伝わりますし、聞く側に不安を残しません。
特に文章でモノゴトを伝える場合は、言い切り型で文章を構成していった方が、内容的にもスッキリして相手に話の内容を理解してもらいやすくなるという効果もあります。
ですから、実際に文章を書く時は、下書きの後、文末に着目してきちんと言い切っているかどうかをチェックします。
そうやって、説得力のある文章に仕上げたりするんですね。
つまり、「言い切る」ということは、文章における説得力と分りやすさの2つを手助けする、大切なツールだということです。
おぉっ!
良いこと尽くめじゃんっ!
そう、ですから文章や話し方の講座などでは、言い切ることの大切さが述べられることが結構多いわけです。
しかし、私から言わせてもらえば、それは小手先のテクニックにしか過ぎません。
この「裸足のリーダー」における私の文章はよく、「言い切り型」だと言われます。
まぁ、読み返してみても、確かにその通りです。
ただ、それはあくまで結果論であって、「言い切り型にしよう!」と思ってやっているわけではありませんし、そのために文章を手直しすることはありません。
だってね、根本的なところで言えば、相手の胸に届くかどうかなんて、言い切ったか言い切らなかったかになんて集約していかないんですから。
大切なのは、その言葉を綴るまでの過程にあります。
ちょっと、恐ろしく簡単な質問をしてみましょう。
「1 + 1」の答えは何でしょう?
もちろん、「2」ですね。
もっと分りやすく言えば、「2です」ですね。
「2だと思う」とか「2なのではないでしょうか?」という人はいません。
なぜ?
それは、自分にとってその答えが、自明の理だからです。
なぜそういう答えになるのかを、自分自身が納得し理解し、であるが故に自信を持っているからです。
しかし、質問の内容が
「カリフォルニア州の人口は、3,500万人以上?それとも未満?」
となった途端、知っている人は言い切れても、知らない人やうろ覚えの人は
「3,500万人以上だと思う」とか「3,500万人・・・未満?」といった言い方になってしまいます。
要するに、自分が説明するモノゴトの理由を、自分自身の中で本当に納得し理解している人は、言い切ることが出来るわけです。
そして、曖昧さを残している人は、自然と言い切ることが出来なくなります。
ですから、「~だと思う」などで文章を自然と締めてしまう人の多くのパターンは、実は自分自身がその答えの裏づけとなるもの(経験や推敲)が乏しいわけです。
であれば、そんな人の書いた文章は、部分的な問題以前に、話全体の説得力自体が乏しいということになります。
それなのに、そんな文章の「~だと思う」「~なのではないか?」という語尾だけを言い切り型に変えたところで、一体どれほど説得力が増すというのでしょうか?
確かに「言い切る」というテクニックを使えば、多少の説得力は増すでしょう。
しかし、それは所詮小手先なものですから、10%アップしたとかしないとか、そんなレベルの話です。
相手に納得してもらえる“内容”には、決してならないんです。
だってさ、中身がないんだもん。
自分自身の心の奥底に不安を残したレベルの言葉が、相手に届くことはありません。
どんなに小手先のテクニックを費やしたところで、相手の胸には響かないんです。
もし、相手に伝えなければいけないと本気で思っているのであれば、もっと自分自身の考えの裏づけとなる経験と熟考を繰り返す必要があります。
伝えるのは、その後からなんですよ。
相手に渡してあげる実力もないうちから、目先の利益を欲しがるから、熟してもいない柿を相手に渡そうとするんです。
渡された相手の気持ちがわかりますか?
決して喜んでもらえない、知らずに食べたら渋い顔するのなんて、簡単に想像できるはずでしょう。
それに気付かず、小手先のテクニックばかりに走ってしまうのは、安易に利益を手に入れようとする大人特有の心の弱さです。
いいですかい?
アナタ自身の言葉が、いくつもの経験を積み重ね、熟考を重ねることで導き出したものであれば、
そして、相手に伝えたいという気持ちが、至極真っ当で強いのであれば、
自然と言葉尻は「言い切り型」になっていくものです。
いや、仮に言葉尻がどうであれ、数々の汗が染み込んだ言葉は、自ずと相手に伝わっていくものなんです。
例え相手が理解してくれずとも、何かしら相手の胸に引っかかるものを残せるはずです。
言葉尻を気にする前に、まずは自分が吐き散らかすその言葉の内側を見つめなさい。
生意気かもしれませんが、それでも私は本気でそう思いますぜ。
┐(  ̄ー ̄)┌ フッ・・・
ps:
むしろ私が心配なのは、言い切れない言葉を言い切ってしまう人の心の不安定さです。
だって、自分自身で自分を誤魔化しているわけですよ。
それを繰り返すことで、その人の心が不安定さを増していく可能性を否定できません。
それどころか、そんな人の言葉からは、説得力どころか、不安定さを感じることが私には度々あります。
ツールやテクニックに振り回さちゃいけない・・・
つくづくそう思いますぜ。
┐(  ̄ー ̄)┌ フッ・・・
ps:
以上、各文章を「思います」で締めてみましたぜ。
┐(  ̄ー ̄)┌ フッ・・・
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2012年1月26日(木) [ にんげん・こころ ]
皆さんも良くご存知の「ウサギとカメ」の寓話。
このお話からは、他者を侮ることの愚かさと地道にコツコツ取り組むことの大切さを学ぶことが出来ます。
しかし、更にもう1歩踏み込んで、「なぜウサギはカメに負けたのか?」を考えると、
「ウサギはカメを見て走り、カメはゴールを見て走っていたから」
という答えが見えてきます。
ま、この回答、方々で語られることも多いので、ご存知の方も多いかと。
しかし、言うは易し行なうは難し。
その道のりは、メチャクチャ長いかもしれませんよ?
例えば、それが15年の歳月を要するものだったら?
10代の頃なら、それもOKでしょう。
夢に向かってひたすら邁進できます。
でも、30代、40代、50代と歳を重ねてしまってからでは、それは難しいわけで。
仮に今が45歳であれば、60歳過ぎても達成できるかできないか?なんて目標にこれからの人生を費やそうなんて気概を持てる人は、ほとんどいません。
だから大人になると、「夢」だとか「志」だとかが、安易で手身近なものに摩り替わります。
そして、近道ばかりを探すようになるんですね。
大人はみんな、ウサギです。
「ぐぐたす」や「G+」などの通称で呼ばれる後発組SNSの「Google+」。
ここに最近入り浸ってるとニュースにもなったのが、ネットでは「やすす」と呼ばれる秋元康氏。
で、そんなやすすがぐぐたすで、AKBのメンバーに向かって、こう語ります。
次の仕事をする前に、もうひとつだけお話ししておきましょう。
成功するためには、何が必要か?
………運です。
僕はこの38年間、スターと呼ばれる人たちを見て来ました。
僕も何人もプロデュースして来ました。
そこで見たものは、運です。
どんなに実力があっても、
運がないとスターにはなれないのです。
じゃあ、努力をしていても無駄なのか?
努力は報われないのか?
そんなことはありません。
努力は必要です。
言い方を変えれば、
努力は成功するための最低条件です。
みんな、必死に努力して、
じっと、チャンスの順番を待つしかないのです。
大ベストセラー「もしドラ」を書いた岩崎夏海は、僕について16年後に成功しました。
僕のドライバーをやっている時も、
ずっと、小説を書いていたんですよ。
いつか、必ず、チャンスの順番が来ると信じなさい。
自分の境遇の悪さだけを嘆いていても始まりません。
頑張れとしか言えないんだ。
実は、このやすす氏の話には、前ふりがあります。
ご存知の通り、AKB48グループのメンバーは200名を超える大所帯であるため、メディアなどに登場できる人は、ほんの一握りです。
彼女達は、限られたわずかなスポットライトに当たるために、鎬(しのぎ)を削る日々を送っています。
しかし、どんなに努力したところで、それを認め引き上げてくれるのは、最終的には総合プロデューサーであるやすす氏です。
自然と見つめる先が、ゴールではなく、やすす氏に行ってしまいがちになるであろうことは、想像に難くありません。
そこで、やすす氏は、こう言うわけです。
誤解しないで欲しいのは、
アピールは僕に向かってではなく、
ぐぐたす住人、つまり、ファンのみなさんに
向かってだよ
若者だって、気付かぬうちに見つめる先が変わってしまいがちです。
であれば、いい歳した大人は、もっと大変なわけです。
長いのか短いのか分らない道のりを、いつ来るか分らないチャンスの順番が巡ってくるまで、ひたすら努力して歩いていく。
ウサギになった私達がもう1度夢を追いかけるのだとしたら、カメになる覚悟を今一度確認しなおさなければならないのかもしれません。
ところで、私が気になったのは、実はやすす氏のこの後に続くお話です。
いやぁ・・・、ちょっと頭をガツンとやられた気分になりました。
私は、チャンスというものを勘違いしていたのかもしれません。
僕がチャンスを作っているのではありません。
僕からのチャンスを待っている間はだめですね。
「私だって選抜に入れば…」
「私だってドラマに出れば…」
「私だってコマーシャルに出れば…」
それがチャンスだと思っているかもしれませんが、それは違います。
それは、チャンスの出口です。
みんなに見つけて欲しいのは、
チャンスの入り口です。
例えば、松井咲子(今まであまりスポットライトに当たることがなかったAKB48のメンバー)。
彼女のチャンスの入り口は、
音大(東京音楽大学ピアノ科)に入ったことです。
趣味の域を越えているから、
代々木でコンサートをやった時、
「ポニーテールとシュシュ」を
弾いてもらったのです。
「TEPPEN」(今年1月に放送されたフジテレビの特番。ここに彼女は単独出演し、ピアノ部門で優勝)にも繋がり、
ぐぐたすで(彼女のコメントの秀逸さが評価され)、さらにブレイクした
ということです。
アルバムを出す(上記の経緯から、彼女のアルバム発売が決定)のは、
チャンスの出口です。
このアルバムを名刺がわりに
どう進むか?です。
選抜も、コマーシャルも、番組も、
僕が一人で決めているわけではありません。
最終決定権は僕にありますが、
いろいろなスタッフの意見を聞きます。
そこに、もっと、いろいろな名前が出て欲しいんですよね。
つまり、松井咲子のような小さな努力や運が見えて来ないんです。
今の自分にできることを考えなさい。
(※ 括弧内は、補足として私が記入)
私達は、チャンスとは空から降ってくる様なものだと思っています。
そして、それはきっと
「私だって、もし~だったら・・・」
と言い換えることが出来るものなのかもしれません。
しかし、それはチャンスではなく、チャンスの出口なんですね。
ウサギとカメのお話、そしてぐぐたすの中のやすす氏のお話。
この2つを通じて、少し見えてきたことがあります。
それは、ビジネスであれ何であれ、大人になってしまった私達が、目標を持ってそれに突き進む時に必要なのは、
カメになる覚悟。
そして、チャンスの入口を見つけること。
カメが突き進む努力の道には、ちゃんと道筋があって、それはチャンスの入口へと繋がっています。
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2012年1月6日(金) [ にんげん・こころ | 映画・映像 ]
新春を迎えて早6日目、まもなく1週間を迎えようとしています。
皆さんは、どの様な年を越し、新年を過ごしてこられたんでしょうか?
私と言えば、ここ数年同様、仕事漬けの年越しでした。
そんなこんなで年末年始のテレビ番組は、録画したものを後から観るというのが、私の毎年の慣例行事となっています。
しかしふと気がつけば、大晦日の風物詩であった格闘技のテレビ番組も昨年はないわけで、世の中の移り変わりを感じざるを得ない年越しになりました。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ
(「平家物語」より)
闘うことも、闘わずに受け入れることも、そしてその場から立ち去ることも、人それぞれの生き方です。
私達は、出会うそれぞれの場面で、それぞれの選択をします。
そして、闘うことを選んだ以上、それは勝つことが目的となります。
勝つために、人は強くなろうと励み、闘いの舞台へと上がります。
しかし、幾度となく闘いの舞台に上がり、勝ち続けた人はほとんどいません。
猛き者も、いつかは衰退していく運命にあります。
数年前の大晦日、格闘家の須藤元気が引退宣言をしたのを思い出しました。
そして、その年明けに書いた「裸足のリーダー」のタイトルが
「百戦錬磨」
100回戦って、100回勝つということではありません。
100回戦って、100回磨き抜かれたということです。
勝つことだけを目的に戦いを続け、にもかかわらず自分の人生に意味を持つのは、勝ったことだけではないのが、人という存在の面白いところです。
私達は、祇園精舎に咲く花なのかもしれません。
移り行く世の中で、戦い続けたということ、そして戦って磨きぬかれたその姿そのものが、意味を持つんです。
「成功」という文字に躍らされ、戦わない様にして戦いの舞台に上がるという中身のない生き方は、滑稽な姿でしかありません。
さて、今年のアナタは、どんな風に磨かれ、そして輝いていくことになるんでしょうか?
ps:
で、その須藤元気率いるパフォーマンスグループ「WORLD ORDER」に今、ハマってます。
有機的な背景の中、無機質で整合性のとれたパフォーマンスが、逆に有機的な何かを感じさせます。
既に「転がる水平線:須藤元気の『WORLD ORDER』のパフォーマンスが必見な件」ではお伝えしたんですが、話の流れ上、コチラでも紹介しとこうかなと。
必見です。
海外でも人気がある様で、コチラは昨年の夏にLAで行なわれたマイクロソフト主催WPC2011のオープニングイベントに出演した時の映像です。
今後の更なる活躍を楽しみにしています。
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2011年9月30日(金) [ にんげん・こころ ]
ユニクロの柳井氏が「一勝九敗」という本を出してから、この「1勝9敗」という言葉をチラホラ目にする様になりました。
もちろん、「1勝9敗」という言葉を聞いて、「一発逆転を狙って賭けに出よう」という意味だと思う人は、そういないでしょう。
多くの場合、「失敗は成功のもと」という意味で理解し、またその様に使われているんじゃないでしょうか?
小さな失敗を積み重ねることで、その経験を活かし、1つの大きな成功を掴みましょう!みたいな。
確かにその通りです。
ただ正直なところ、1勝9敗で最終的に成功を手にするというのは、簡単なことではありません。
それどころか、多くの人が「9勝1敗」、つまり数多くの勝利の後に起こるたった1度の失敗で、深い闇に沈んでいきます。
以前、この裸足のリーダーでもお話しましたが、人間の心には「プロスペクト理論」というものが働きます。
要するに人は、1回の成功で手にする利益よりも、1回の失敗で被る損失の方が大きくなってしまうんです。
これは、特別な話ではありません。
人間として、ごく普通の心理です。
ですから通常、人は多くの成功を積み重ねても、たった1度の失敗で全てを失ったりします。
ビジネスや投資に限らず、恋人や家族、友達や信用も同様に・・・ね。
「1勝9敗」と言われて頭の中で納得できても、実際にその通りに出来る人はほとんどいません。
これを先天的にできる人の方が実は稀で、「天才」とはこういった人のことを指して言うわけです。
では、天才でもない私達がそんな「1勝9敗」で成果を収めるにはどうしたら良いのでしょうか?
正直、難しいですよ~、いやマジで。
しかし、対処法を理屈で説明するだけなら、簡単です。
結局は、「リスク管理」ですから。
まず、私達がモノゴトを実行する場合、予めリスクを算出しておきます。
未来とは、不確定要素の塊みたいなもの。
成功と失敗のどっちに転ぶかわからないことだらけ。
ですから、そんな部分を挙げていきながら、結果として失敗した場合にどれだけの損失を被るのかを考えます。
そして、その損失を受けれても大丈夫なのか?
上手くいかないのであれば、どの段階で手を引くべきか?
それらを考えます。
と同時に、上手くいく場合の利益の最大値も考えます。
そして、「受け取る利益 > 被る損失」であるならば(もっと正確に言えば、「成功確率 × 利益 > 損失」であるならば)、実行に移します。
で、走り出したら、許容できるリスクの範囲に達するまで徹底的に突っ走る。
そして、リスクの許容範囲を超える様ならば、あっさりと撤退する。
これが、1勝9敗で成果を手にするための、対処手順です。
しかし、言うは易し行なうは難し。
予めリスクを算出して計画的に実行しようとしても、それを邪魔するのが、先にお話した人間心理です。
いざリスクの許容範囲に達しても、ほとんどの人が諦め切れずに突き進んでしまいます。
撤退できないんですね。
そうして被害を増大させていくんです。
そのくせ、いざ上手くいった場合は、その途端に手にした利益を失うことが怖くなって、徹底して利益を追うことが出来なくなります。
例えば商売の場合、急に売れなくなった時のことや体裁や批判なんかが気になりだして、追い風に乗ってるのに売りまくることを自ら躊躇してみたりとか。
そんなことをしてしまうんですよ、なぜか人は。
自分でブレーキを踏んじゃいます。
もちろん、リスクなんて気にせずに売りまくってしまう人もいるでしょう。
でもそういう人は、いざピンチの時でもリスク許容範囲を超えて突き進みますから、やっぱり1回の負けで全てを失ってしまいます。
結局、多くの人がこのプロスペクト理論から抜け出せません。
だから、難しいんですよ。
1勝9敗で成果を手にするってのは。
頭の中で理解した気になったって、現実に直面してみれば、その通りになんて出来やしないのが、人間なんです。
好きになるならあの人に惚れるべきだと言われても、そして自分の頭の中でもそう思っても、その通りに惚れられないのと同じです。
理屈どおりに感情と行動を合わせられないのが、人間なんです。
人が恋愛の指南書通りに恋愛できないように、ビジネスだって指南書通りにはいかないんですよ。
ですから、前に進もうと思ったら、阿呆と呼ばれても傷つきながら体当たりしていくしか、私達は学ぶことができません。
そうやって何度も何度も傷つき身体で学んでいった人だけが、ようやく「1勝9敗」という勝利の美酒を味わうことができるのです。
ただし、“現実”とは自分ひとりのものでもなければ、作り物のドラマでもありません。
ビジネスだって、自分だけの人生ではなく、従業員の人生、また取引先や顧客の生活も巻き込みながら、はじめて成立するわけです。
ですから、「ビジネスも恋愛も同じ様に・・・」とか言っても、「101回目のプロポーズ」の様に、
「僕は死にましぇ~んっ!」
と言って、走るトラックの目の前に飛び込む行為はだけはしてはいけません。
まぐれで手にした勝利が何度あったところで、たった1つの敗戦で全てを失ってしまうんですから。
1勝9敗とは、あくまでリスク管理を徹底した上で現実の人間が挑む、ノンフィクションのドラマのことです。
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