2012年1月26日(木) [ にんげん・こころ ]
皆さんも良くご存知の「ウサギとカメ」の寓話。
このお話からは、他者を侮ることの愚かさと地道にコツコツ取り組むことの大切さを学ぶことが出来ます。
しかし、更にもう1歩踏み込んで、「なぜウサギはカメに負けたのか?」を考えると、
「ウサギはカメを見て走り、カメはゴールを見て走っていたから」
という答えが見えてきます。
ま、この回答、方々で語られることも多いので、ご存知の方も多いかと。
しかし、言うは易し行なうは難し。
その道のりは、メチャクチャ長いかもしれませんよ?
例えば、それが15年の歳月を要するものだったら?
10代の頃なら、それもOKでしょう。
夢に向かってひたすら邁進できます。
でも、30代、40代、50代と歳を重ねてしまってからでは、それは難しいわけで。
仮に今が45歳であれば、60歳過ぎても達成できるかできないか?なんて目標にこれからの人生を費やそうなんて気概を持てる人は、ほとんどいません。
だから大人になると、「夢」だとか「志」だとかが、安易で手身近なものに摩り替わります。
そして、近道ばかりを探すようになるんですね。
大人はみんな、ウサギです。
「ぐぐたす」や「G+」などの通称で呼ばれる後発組SNSの「Google+」。
ここに最近入り浸ってるとニュースにもなったのが、ネットでは「やすす」と呼ばれる秋元康氏。
で、そんなやすすがぐぐたすで、AKBのメンバーに向かって、こう語ります。
次の仕事をする前に、もうひとつだけお話ししておきましょう。
成功するためには、何が必要か?
………運です。
僕はこの38年間、スターと呼ばれる人たちを見て来ました。
僕も何人もプロデュースして来ました。
そこで見たものは、運です。
どんなに実力があっても、
運がないとスターにはなれないのです。
じゃあ、努力をしていても無駄なのか?
努力は報われないのか?
そんなことはありません。
努力は必要です。
言い方を変えれば、
努力は成功するための最低条件です。
みんな、必死に努力して、
じっと、チャンスの順番を待つしかないのです。
大ベストセラー「もしドラ」を書いた岩崎夏海は、僕について16年後に成功しました。
僕のドライバーをやっている時も、
ずっと、小説を書いていたんですよ。
いつか、必ず、チャンスの順番が来ると信じなさい。
自分の境遇の悪さだけを嘆いていても始まりません。
頑張れとしか言えないんだ。
実は、このやすす氏の話には、前ふりがあります。
ご存知の通り、AKB48グループのメンバーは200名を超える大所帯であるため、メディアなどに登場できる人は、ほんの一握りです。
彼女達は、限られたわずかなスポットライトに当たるために、鎬(しのぎ)を削る日々を送っています。
しかし、どんなに努力したところで、それを認め引き上げてくれるのは、最終的には総合プロデューサーであるやすす氏です。
自然と見つめる先が、ゴールではなく、やすす氏に行ってしまいがちになるであろうことは、想像に難くありません。
そこで、やすす氏は、こう言うわけです。
誤解しないで欲しいのは、
アピールは僕に向かってではなく、
ぐぐたす住人、つまり、ファンのみなさんに
向かってだよ
若者だって、気付かぬうちに見つめる先が変わってしまいがちです。
であれば、いい歳した大人は、もっと大変なわけです。
長いのか短いのか分らない道のりを、いつ来るか分らないチャンスの順番が巡ってくるまで、ひたすら努力して歩いていく。
ウサギになった私達がもう1度夢を追いかけるのだとしたら、カメになる覚悟を今一度確認しなおさなければならないのかもしれません。
ところで、私が気になったのは、実はやすす氏のこの後に続くお話です。
いやぁ・・・、ちょっと頭をガツンとやられた気分になりました。
私は、チャンスというものを勘違いしていたのかもしれません。
僕がチャンスを作っているのではありません。
僕からのチャンスを待っている間はだめですね。
「私だって選抜に入れば…」
「私だってドラマに出れば…」
「私だってコマーシャルに出れば…」
それがチャンスだと思っているかもしれませんが、それは違います。
それは、チャンスの出口です。
みんなに見つけて欲しいのは、
チャンスの入り口です。
例えば、松井咲子(今まであまりスポットライトに当たることがなかったAKB48のメンバー)。
彼女のチャンスの入り口は、
音大(東京音楽大学ピアノ科)に入ったことです。
趣味の域を越えているから、
代々木でコンサートをやった時、
「ポニーテールとシュシュ」を
弾いてもらったのです。
「TEPPEN」(今年1月に放送されたフジテレビの特番。ここに彼女は単独出演し、ピアノ部門で優勝)にも繋がり、
ぐぐたすで(彼女のコメントの秀逸さが評価され)、さらにブレイクした
ということです。
アルバムを出す(上記の経緯から、彼女のアルバム発売が決定)のは、
チャンスの出口です。
このアルバムを名刺がわりに
どう進むか?です。
選抜も、コマーシャルも、番組も、
僕が一人で決めているわけではありません。
最終決定権は僕にありますが、
いろいろなスタッフの意見を聞きます。
そこに、もっと、いろいろな名前が出て欲しいんですよね。
つまり、松井咲子のような小さな努力や運が見えて来ないんです。
今の自分にできることを考えなさい。
(※ 括弧内は、補足として私が記入)
私達は、チャンスとは空から降ってくる様なものだと思っています。
そして、それはきっと
「私だって、もし~だったら・・・」
と言い換えることが出来るものなのかもしれません。
しかし、それはチャンスではなく、チャンスの出口なんですね。
ウサギとカメのお話、そしてぐぐたすの中のやすす氏のお話。
この2つを通じて、少し見えてきたことがあります。
それは、ビジネスであれ何であれ、大人になってしまった私達が、目標を持ってそれに突き進む時に必要なのは、
カメになる覚悟。
そして、チャンスの入口を見つけること。
カメが突き進む努力の道には、ちゃんと道筋があって、それはチャンスの入口へと繋がっています。
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2012年1月6日(金) [ にんげん・こころ | 映画・映像 ]
新春を迎えて早6日目、まもなく1週間を迎えようとしています。
皆さんは、どの様な年を越し、新年を過ごしてこられたんでしょうか?
私と言えば、ここ数年同様、仕事漬けの年越しでした。
そんなこんなで年末年始のテレビ番組は、録画したものを後から観るというのが、私の毎年の慣例行事となっています。
しかしふと気がつけば、大晦日の風物詩であった格闘技のテレビ番組も昨年はないわけで、世の中の移り変わりを感じざるを得ない年越しになりました。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとし
たけき人者も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ
(「平家物語」より)
闘うことも、闘わずに受け入れることも、そしてその場から立ち去ることも、人それぞれの生き方です。
私達は、出会うそれぞれの場面で、それぞれの選択をします。
そして、闘うことを選んだ以上、それは勝つことが目的となります。
勝つために、人は強くなろうと励み、闘いの舞台へと上がります。
しかし、幾度となく闘いの舞台に上がり、勝ち続けた人はほとんどいません。
猛き者も、いつかは衰退していく運命にあります。
数年前の大晦日、格闘家の須藤元気が引退宣言をしたのを思い出しました。
そして、その年明けに書いた「裸足のリーダー」のタイトルが
「百戦錬磨」
100回戦って、100回勝つということではありません。
100回戦って、100回磨き抜かれたということです。
勝つことだけを目的に戦いを続け、にもかかわらず自分の人生に意味を持つのは、勝ったことだけではないのが、人という存在の面白いところです。
私達は、祇園精舎に咲く花なのかもしれません。
移り行く世の中で、戦い続けたということ、そして戦って磨きぬかれたその姿そのものが、意味を持つんです。
「成功」という文字に躍らされ、戦わない様にして戦いの舞台に上がるという中身のない生き方は、滑稽な姿でしかありません。
さて、今年のアナタは、どんな風に磨かれ、そして輝いていくことになるんでしょうか?
ps:
で、その須藤元気率いるパフォーマンスグループ「WORLD ORDER」に今、ハマってます。
有機的な背景の中、無機質で整合性のとれたパフォーマンスが、逆に有機的な何かを感じさせます。
既に「転がる水平線:須藤元気の『WORLD ORDER』のパフォーマンスが必見な件」ではお伝えしたんですが、話の流れ上、コチラでも紹介しとこうかなと。
必見です。
海外でも人気がある様で、コチラは昨年の夏にLAで行なわれたマイクロソフト主催WPC2011のオープニングイベントに出演した時の映像です。
今後の更なる活躍を楽しみにしています。
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2011年9月30日(金) [ にんげん・こころ ]
ユニクロの柳井氏が「一勝九敗」という本を出してから、この「1勝9敗」という言葉をチラホラ目にする様になりました。
もちろん、「1勝9敗」という言葉を聞いて、「一発逆転を狙って賭けに出よう」という意味だと思う人は、そういないでしょう。
多くの場合、「失敗は成功のもと」という意味で理解し、またその様に使われているんじゃないでしょうか?
小さな失敗を積み重ねることで、その経験を活かし、1つの大きな成功を掴みましょう!みたいな。
確かにその通りです。
ただ正直なところ、1勝9敗で最終的に成功を手にするというのは、簡単なことではありません。
それどころか、多くの人が「9勝1敗」、つまり数多くの勝利の後に起こるたった1度の失敗で、深い闇に沈んでいきます。
以前、この裸足のリーダーでもお話しましたが、人間の心には「プロスペクト理論」というものが働きます。
要するに人は、1回の成功で手にする利益よりも、1回の失敗で被る損失の方が大きくなってしまうんです。
これは、特別な話ではありません。
人間として、ごく普通の心理です。
ですから通常、人は多くの成功を積み重ねても、たった1度の失敗で全てを失ったりします。
ビジネスや投資に限らず、恋人や家族、友達や信用も同様に・・・ね。
「1勝9敗」と言われて頭の中で納得できても、実際にその通りに出来る人はほとんどいません。
これを先天的にできる人の方が実は稀で、「天才」とはこういった人のことを指して言うわけです。
では、天才でもない私達がそんな「1勝9敗」で成果を収めるにはどうしたら良いのでしょうか?
正直、難しいですよ~、いやマジで。
しかし、対処法を理屈で説明するだけなら、簡単です。
結局は、「リスク管理」ですから。
まず、私達がモノゴトを実行する場合、予めリスクを算出しておきます。
未来とは、不確定要素の塊みたいなもの。
成功と失敗のどっちに転ぶかわからないことだらけ。
ですから、そんな部分を挙げていきながら、結果として失敗した場合にどれだけの損失を被るのかを考えます。
そして、その損失を受けれても大丈夫なのか?
上手くいかないのであれば、どの段階で手を引くべきか?
それらを考えます。
と同時に、上手くいく場合の利益の最大値も考えます。
そして、「受け取る利益 > 被る損失」であるならば(もっと正確に言えば、「成功確率 × 利益 > 損失」であるならば)、実行に移します。
で、走り出したら、許容できるリスクの範囲に達するまで徹底的に突っ走る。
そして、リスクの許容範囲を超える様ならば、あっさりと撤退する。
これが、1勝9敗で成果を手にするための、対処手順です。
しかし、言うは易し行なうは難し。
予めリスクを算出して計画的に実行しようとしても、それを邪魔するのが、先にお話した人間心理です。
いざリスクの許容範囲に達しても、ほとんどの人が諦め切れずに突き進んでしまいます。
撤退できないんですね。
そうして被害を増大させていくんです。
そのくせ、いざ上手くいった場合は、その途端に手にした利益を失うことが怖くなって、徹底して利益を追うことが出来なくなります。
例えば商売の場合、急に売れなくなった時のことや体裁や批判なんかが気になりだして、追い風に乗ってるのに売りまくることを自ら躊躇してみたりとか。
そんなことをしてしまうんですよ、なぜか人は。
自分でブレーキを踏んじゃいます。
もちろん、リスクなんて気にせずに売りまくってしまう人もいるでしょう。
でもそういう人は、いざピンチの時でもリスク許容範囲を超えて突き進みますから、やっぱり1回の負けで全てを失ってしまいます。
結局、多くの人がこのプロスペクト理論から抜け出せません。
だから、難しいんですよ。
1勝9敗で成果を手にするってのは。
頭の中で理解した気になったって、現実に直面してみれば、その通りになんて出来やしないのが、人間なんです。
好きになるならあの人に惚れるべきだと言われても、そして自分の頭の中でもそう思っても、その通りに惚れられないのと同じです。
理屈どおりに感情と行動を合わせられないのが、人間なんです。
人が恋愛の指南書通りに恋愛できないように、ビジネスだって指南書通りにはいかないんですよ。
ですから、前に進もうと思ったら、阿呆と呼ばれても傷つきながら体当たりしていくしか、私達は学ぶことができません。
そうやって何度も何度も傷つき身体で学んでいった人だけが、ようやく「1勝9敗」という勝利の美酒を味わうことができるのです。
ただし、“現実”とは自分ひとりのものでもなければ、作り物のドラマでもありません。
ビジネスだって、自分だけの人生ではなく、従業員の人生、また取引先や顧客の生活も巻き込みながら、はじめて成立するわけです。
ですから、「ビジネスも恋愛も同じ様に・・・」とか言っても、「101回目のプロポーズ」の様に、
「僕は死にましぇ~んっ!」
と言って、走るトラックの目の前に飛び込む行為はだけはしてはいけません。
まぐれで手にした勝利が何度あったところで、たった1つの敗戦で全てを失ってしまうんですから。
1勝9敗とは、あくまでリスク管理を徹底した上で現実の人間が挑む、ノンフィクションのドラマのことです。
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2011年9月16日(金) [ にんげん・こころ | ビジネス・おかね ]
そう言えばしばらく前に、「楽して儲かる」的なキャッチフレーズが氾濫していた時期がありました。
が、「楽して儲けたい」という人間心理は、一時的なものではありません。
古くから現在に至るまで、そんな甘い誘惑は、暗闇から延々と私達に手招きし続けているのです。
しかし残念なこと、そんなうまい話はありません。
だって、金儲けは楽じゃないんですから。
総量は決まっているのに、皆がより多くのお金を得ようとします。
だから言ってしまえば、金儲けとはお金の奪い合いです。
競争なんです。
競争であれば、それを得るためには、それなりの能力と努力と工夫が必要になってきます。
で、一体その金儲けのどこが楽だというんでしょう?
金儲けって、楽などころか大変なんです。
ただ、もう1つ。
実は、楽して金儲けが出来ない理由が、もう1つあります。
それは、人の心の内側に隠れていて、なかなか自覚できない代物です。
「お金持ちになりたい」とは、誰もが思うことです。
見栄や体裁を考えなければ、「大金が欲しい」と思わない人はいません。
・・・と、誰もが思っていることでしょう。
しかし、それは凄く表面的な認識です。
実は、ほとんどの人が大金が欲しいなんて思っていないんですよ。
いや、ホントです。
では試しに、メチャクチャ贅沢ってわけではないけれど、そこそこの生活をイメージしてみてください。
例えば、まあ月に2回くらいは外食が出来て、普段の生活でも食べたいものは結構食べれたり。
たっぷりある休日は旅行に行ったり、映画を観たり、昼でゴロ~ンと寝転んでみたり。
もちろん、欲しい家電や車なんかも普通に手に入って。
これから一生、衣食住には困らず、医療費も養育費も気にならない生活です。
で、そんな生活が、働かずともお金がなくとも手に入るとしたら?
大層な贅沢を望まなければ働く必要もありませんから、煩わしい人間関係からも開放されます。
嫌な仕事はしなくても良いですし、趣味や娯楽に費やす時間もたっぷり。
どうです?
金銭的に不安のない生活を、お金を稼ぐことなく出来るとしたら?
それで結構十分だって人が、ほとんどじゃないんですかね?
要するに、金儲けがしたいんじゃないんですよ。
不安を取りのぞき、ある程度の欲が満たせる様な生活がしたいだけ。
つまり、楽になりたいだけなんです。
我慢したり苦労したりすることなく、不安のない生活。
私達のほとんどが求めているのは、金儲けじゃなくて、楽な生活なんです。
ただ私達は、楽な生活を保障してくれそうな代名詞を「お金」に当てはめているだけなんです。
ですから、楽して儲けたいと思っている人に、金儲けすることは絶対に出来ません。
だって、先にも言った通り、お金儲けは楽じゃないんですから。
楽をしたいだけの人に、お金儲けをする努力ができるはずがありません。
望んでもいない現実を、どうやって手に入れるというんでしょうか?
あるとすれば、それは単なる偶然です。
偶然以外の何ものでもありません。
いいですかい?
望んでもいないものを手に入れようとする本末転倒ぶりは、火傷の原因を作り出します。
楽がしたいだけなのに金儲けをしようとするから、うまい話に乗って、逆にお金を手放す側に回ってしまうんです。
本当にお金儲けがしたいなら、とっくの昔からアナタはそのための努力をしているはずです。
寝食を惜しんで、働いてお金を稼いでいるはずなんです。
しかも、喜んでね。
うまい話に乗ってしまう前に、人は自分の本当の気持ちに気づくべきです。
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2011年8月26日(金) [ にんげん・こころ ]
昨年から売れている本に、「超訳ニーチェの言葉」というものがあります。
100万部を超える大ベストセラーだそうで。
恐らく、ニーチェの名をこれ程までに知らしめた本は、今までになかったでしょう。
しかしそれ以上に、ニーチェの思想を知る人達をこれ程までに怒らせた本も、今までになかったかもしれません。
だって、あの本はニーチェの思想とかけ離れ過ぎなんですもん。
ニーチェの著作物から文章を個別に抜き取り、別な解釈をすることで、逆にニーチェが嫌ったはずの内容に仕立て上げられています。
私自身も、この本を書店で初めて眼にした瞬間に違和感を覚えました。
「なんでニーチェの本が、自己啓発コーナーに?」
「え?この翻訳者って、ニーチェ嫌いじゃなかったっけ?」
「え?この出版社って、ニーチェの思想に反する系でしょ?」
ってな具合に。
ニーチェを知らぬ者は、この本を読むことによって、本来のニーチェとは全く違った思想を彼の思想として受け入れてしまうことになります。
まさに、ニーチェ殺しの本。
「神は死んだ」と言ったニーチェは、この本によって只今、瀕死の状態に襲われている様です。
ただ、妙味があるなぁーと思ったことが1点。
それはこの本のタイトルに付いている「超訳」という言葉。
これって、ニーチェの「超人」思想にかけたんじゃないかと。
ニーチェのいう「超人」とは、人間そのものを超えることであり、人間そのものではありません。
ですから「超訳」も、本来の作者の意図を超えて翻訳しているという意味があり、「この本は、ニーチェの思想ではない」と暗に伝えているのかもしれません。
要は、ニーチェのパロディー本ってやつですかね。
ま、「テクストは作者の本来の意図を超えたところで読み手の自由意志によって解釈されてOK!」という考え方もありますからねぇ。
それはそれでアリなのかも。
(追記: 上記文面で「それはそれでアリなのかも」と書きましたが、今改めて読み返してみて、「いや、それもどうかなぁ?」とも思っています。なぜなら、ニーチェの思想は過去に、自分らの都合の良い解釈をすることでナチスに利用された経緯があるからです。2011/09/09)
ところで私達は、生まれてこのかた、数々の経験を繰り返して今の自分を築いています。
それは良い意味でも悪い意味でも。
数々の経験の中には数々の失敗があります。
そして人は、同じ失敗を繰り返さない様に人生を歩む様になります。
もちろん、それ自体は決して悪いことではありません。
しかし、そんな経験が時として、足を1歩前に踏み出すことが必要な場面で、しり込みをさせる原因となったりします。
また、今は情報化社会。
本やテレビ、インターネットなどの情報媒体から様々な知識を得ることが可能です。
そのため、体験せずに、知った気になることが安易になりました。
そうやって私達は、前に進もうとするくせに、自らの経験が持つ負の遺産と、体験なき知識によって、新たな経験を回避する様になっていきます。
なんだかなー。
何か大切なものを失っている気がしませんか?
誰もが生まれたばかりの頃、立って歩くことは出来ませんでした。
しかし私達は、
立ち上がってみてはお尻をつき、また立ち上がってみてはお尻をつき、
1歩足を前に出してみては転んでみ、また1歩足を前に出しては転んでみ、
そうやって、いつの間にか2本の足で立って歩くことが出来るようになりました。
そう、私達はただひたすら、立ち上がろうとし、歩こうとしただけです。
お尻をついても転んでも、何度も何度も立ち上がり、1歩1歩足を前に進めることを繰り返したんです。
そこには、壮大な目標も計画もありません。
失敗したらどうしようだなんて、迷うこともありません。
失敗したからといって、クヨクヨすることもありませんし、無理してポジティブに振舞うこともありません。
もちろん、歩くために必要な知識を、予め本で学ぶわけでもありません。
無心で、ただひたすら、何度も何度も、チャレンジする。
たったそれだけのことを、私達は赤ちゃんの頃、何度も何度も繰り返してきたんです。
そしていつの間にか、私達はそんな当たり前の姿勢を忘れてしまっています。
ニーチェは、その超人思想において、超人とは幼子になることだと例えました。
無心で、自分の意志と力に身を委ね、ただひたすら挑む姿・・・
それはまるで、無邪気に遊ぶ子供達の様に。
もちろん、ニーチェの語った超人に至ることなど、私達にとっては遠い道のりでしょう。
しかし、アナタも私も、誰もが持ち合わせていたはずの、あの頃の様に振舞うことくらいなら出来るかもしれません。
無心で無邪気に、何度も何度もチャレンジする・・・
そう、それはまるで幼子の様に。
ps:
そもそも、「神は死んだ」と言い、「アンチクリスト」(邦題「キリスト教は邪教です!」)を書いたのはニーチェです。
そんな彼が、今時の自己啓発的な思想を説くわけないでしょ。
安易な内容の書物ばかりに手を出していると、知らないうちに知らない誰かに振り回されてしまいます。
とまぁ色々と言ってますが、だからといって私がニーチェの思想をきちんと理解しているかといえば、どうかな?って感じです。
だってホント、ニーチェの本は難解ですから。
でも、フルーチェだったら私にも簡単に作れますぜ。
┐(  ̄ー ̄)┌ フッ・・・
ps:
ちなみに、このエッセイの公開の10分後に発行するメルマガでは、私なりの解釈でニーチェの思想に割と接点があるかな~という歌を3つほど挙げています。お楽しみに。
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