たった3つの選択肢(あらゆる問題に対処するために)

私達は生きていくうえで、様々な問題に直面します。

  • 進路はどうしようかだとか
  • でも今の成績じゃ合格できないだとか
  • 今日は湯船には浸からずにシャワーで済まそうかとか
  • 寝坊して遅刻しそうだから、どう言い訳しようかとか
  • 好きな人に告白すべきかどうかだとか
  • フラれて辛くてしかたがないだとか
  • この件の責任をどう取るべきかとか
  • 逆にこの責任をどう回避しようかとか
  • この競争には勝たなくちゃいけないだとか
  • この争いごとに巻き込まれないようにしなくちゃだとか
  • 倒産・失業などの崖っぷちにどう対処したらよいのかとか
  • ローンが払えなくなっちゃったとか
  • 今日の夕食は、ハンバーグにしようか生姜焼きにしようかとか
  • バスの方が安上がりだけど、面倒だからタクシーにしようかとか
  • 就職先が未だに決まらないだとか
  • 転職先に妥協できずに、今日もまたフラフラしてるだとか
  • オナラを他人に聞かれちゃった、さあどうしよう?だとか
  • お前がグズグズしてるから電車に乗り遅れちゃっただろ、どうしてくれるんだこの野郎!だとか

言い出したらきりがないんでこの辺にしておきますが、それこそ小さなものから人生の一大事まで、私達は一生の間に様々な問題達と巡り会います。

もちろん、それらに対して単純に答えを導き出せるものばかりであれば良いのですが、残念なことにそうは問屋が卸しやがりません。

考えれば考えるほど複雑で、

アッチを立てればコッチが立たず、
こうすればこんなメリットはあるけど、こんなデメリットも生まれるし、
じゃあ、こうすればって手を加えると、今度は別な問題点が出てくるし、
どれも良い手段の様な気もするけど、どれもダメな気もするし、
上手く行ったところでたいしたメリットはないけれど、失敗したら結構痛いなって感じだし、

世の中というのは私達の人知を超えて複雑怪奇に出来てますから、そう簡単に答えは出せません。

しかし、そんな現状に対し、私達はどう足掻いたところで、たった3つの選択肢しか持ち合わせていません。
それは、

  • 戦うか
  • 受け入れるか
  • 逃げるか

の3つだけです。
どんなに悩んだところで、結局はたったこの3つの道だけなんです。

そう、問題はどんなに複雑であっても、それに対する行動基準は至ってシンプルです。

現状に対して、立ち向かうか、受け入れるか、逃げるか・・・

どうです?
単純でしょ?
簡単でしょ?

どんなに考えたところで、私達は結局のところ、この3つ道のどれかを選ぶしかありません。

時と場合に応じて、受け入れてみたり戦ってみたり、そしてたまには逃げてみたりと、手を変え品を変えて、私達は生きていきます。

う~ん、私の人生もアナタの人生も、なんて鮮やかなんでしょう。

もちろん、戦い続ける人生も素敵ですし、受け入れ続ける人生も美しい。
いつもじゃなければ、逃げてみるのも全然OKです。

 

ただし、いくらシンプルとはいっても、注意することが1つだけあります。

それは、この3つの選択肢のどちらでもないケースを私達は選択しがちだということ。

何度も言う様に、私達が直面する問題って決して単純ではなく、複雑です。
ですから、私達自身が複雑に考えたり複雑な心境になったりして、複雑に対応してしまいがちです。

そして気がつかないうちに、どっちつかずの方向に進んでいたりします。

で、最悪なのは、そんなどっちつかずの自分を誤魔化してしまっていたりすること。
見栄だとか体裁だとか欲だとか、実はどうでも良いことが邪魔しちゃってね。

頭の表面では戦っている気になっていて、でも実はほとんど戦うことなく逃げてばっかとか。
現状を受け入れているつもりで、でも他人を羨ましがったり妬んだりとか。

しかも、そんな自分に気がつかない・・・

 

でもね、道は3つしかないんですよ。
戦う道か、受け入れる道か、逃げる道かの3つしか。

だから、それ以外には道はない。
道のない荒野やジャングルに足を踏み入れてしまえば、向かう先も見失い、迷い、途方に暮れてしまいます。
下手すりゃ、大怪我したり命取りになったりもします。

まあ、そんな生き方がしたいなら、それはそれで構いませんが。
でも、そうは思ってない人がほとんどでしょ?

だから、もう一度言います。

直面する問題に対する選択肢は、たった3つしかありません。

戦うか、受け入れるか、逃げるか。

さあ、今度のアナタは、どの道を突き進みますか?

ps:

まあ、あれこれ言ってますが・・・

人の生き方として、この3つの道を選択しきれずに足掻いている様な生き方っていうのも、逆に人間らしいというか、人間味があるわけで。

ですから、それもまた愛すべき人達と言えるんでしょうねぇ。

選択しきれない生き方にも、そこに懸命さや健気さがあるかどうかで、その人の人生は大きく違ってきます。


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報酬50%カットしても3600万円残る時の溝

ネタとしてはやや古い気もしますが、少し前にこんなニュースがありました。

東日本大震災:福島第1原発事故 東電役員報酬、半減後も「3600万円」--経産相(毎日jpより)

原発事故を起こした東京電力は役員報酬を半額にするというリストラ策を出しましたが、一部の役員は50%カットしてもまだ3600万円残るという話です。

このニュースが流れた直後、ネットでは、

「ふざけるなっ!あれだけの事故と被害を起こして、まだ3600万円も貰う気か! 自覚がなさ過ぎるだろ!」

といった内容の意見で溢れました。

周知の通り、福島の原発事故の被害は甚大です。
被災者達は職や住む場所を失い、未だに先の見えない避難生活をおくるハメになっています。

にもかかわらず、その事故を起こした東電の経営者には、3600万円もの大金が報酬として支払われる・・・

こんな話は、被災者でなくとも一般庶民の感覚として、到底受け入れられるものではありません。
リストラ策どころか、多くの日本人の感情を逆なでする様な話です。

 

・・・と、ここまで読んで、気がつかなくちゃいけません。

「一般庶民の感覚として」
「感情を逆なでする」

分りやすい様に、あえて使ってみました。
そう、東電の役員報酬3600万円に対するこれらの意見は、ロジックではなく感情論だということです。

もちろん、この感情論が悪いというつもりは全くありません。
が、こういった場合に生まれてしまう私達の認識の歪みには気づいておいて損はないんじゃないかと。

 

この手の話を聞いたとき、私達はまず

「3600万円もの大金を手にする(被害を起こした張本人なのに)」

ということに意識が置かれます。

確かに3600万円は大金です。
平成21年度のサラリーマンの平均年収が406万円(国税庁調べ)ですから、それと比べたらもう・・・って感じです。

しかし良く考えてみてください。
東電の役員はその報酬が50%カットなのですから、本来の報酬予定額は事故が起こらなければ、7200万円だったわけです。
つまりそれは、

「3600万円もの大金が残る」

と同時に、

「3600万円もの大金を失う」

ということです。

ところが私達はどうしたことか、“大金が残る”ことばかりに意識が向かい、“大金を失う”ことには意識が全く向かいません。

3600万円もの大金がカットされちゃうんですよ?
3600万円あったら、一体何が買えると思うんですか?

きっと今夜のおかずは豚肉から和牛に格上げするはずですし、缶ビールも2本まで飲んでいいよって、奥さんは言ってくれるかもしれません。
食後のデザートにガリガリ君を食べたって、誰にも文句を言われる筋合いはないのです。

さて、私は一体何を言っているんでしょうか?
兎にも角にも、3600万円というのはアレもコレも買えちゃうくらいの大金なわけです。

で、それほどの大金が突然カットされるハメになるとしたら、アナタならどう思いますか?
平然としてられるわけがありません。

にもかかわらず、事が他人事であると、“大金を失う”方より“大金が残る”方に意識が向かいます。

しかし、こんなことを言うと

「それでもまだ3600万円もの大金が残るじゃないか!」

と反論する人が出てきます。

ほら、また“残る”方に意識が逆戻りです。
どうしても大金が“残る”方に考えが固執してしまうんです。

妬み、僻みもあるかもしれません。
そうではなく、被災者の気持ちを察した上での感情なのかもしれません。

だって、被災者は住む場所と職を失ったにもかかわらず、事故を起こした側の経営者には大金が入るというのは、一種の矛盾ですから。

いずれにせよ、私達は感情を持つ生き物です。
なので、感情を廃してモノゴトをフラットに見るというのは非常に困難です。

で、これが東電側と一般市民との間に認識のギャップを生み出す一端を担っています。

 

翻って、東電サイドでモノゴトを考えて見ましょうか。

事故後の対応のまずさを彼らがどれだけ認識できているかはわかりませんが、事故発生の原因から考えれば、

「俺達のせいではない」

との気持ちはあるはずです。

福島原発は、国の原発推進のもとに進められ、原発の設計においても管理においても、きちんと国の基準を満たしていた様です。
つまり、事故の原因は操作ミスや怠慢による人災ではなく、津波による「天災」なわけです。

「事故の原因は自分達にあるわけじゃないのに・・・」

という気持ちが心の片隅にあったとしてもおかしくはありません。

ましてや「天災」ということで被害を受けたのは東電も同じです。
多額の費用をかけた施設が崩壊してしまったのですから、東電地震の被害も甚大なわけです。

であれば、

「原発事故が起きたのは自分達のせいではないし、こっちだって被害者だ」 

という意識があっても、無理はありません。
私達だって同じ立場に立たされたら、この様に思ってしまう可能性は十分にあり得ます。

にもかかわらず、リストラ策として年俸の半額、3600万円もの大金が削られてしまう・・・

人は、年収が360万円であればそれなりに暮らしますし、7200万円でもそれなりの暮らしをします。
年収が20倍なら、20倍なりのエンゲル係数・資金運用・人付き合い・借金などがあるんです。

ですから、残り額が3600万円もあるじゃないかと思っても、年収7200万円の当人にとってその半分の3600万円がカットされるのは結構痛いものです。

しかも、東電クラスの企業であれば、役員報酬額が7200万円というのは、決して高くない、というか低い部類かも。

ですから、当の本人達からすれば、結構な痛手を負っている気持ちがあっても全然おかしくないはずですよ。

 

こう考えてみると、東電側とその外側にいる一般市民との間に存在する認識には大きな溝があることが見えてくると思います。

私達は、このニュースを聞いた時、被災者側の気持ちに立って、東電を加害者としてみます。

しかし東電側は、「被災者に対しては加害者」であると同時に天災に対する被害者です。
加害者意識があるにしても、その意識で頭の中が100%満たされるわけではありません。

内側と外側では、見えない大きな溝が存在しています。

 

これだけの被害をもたらした事態であっても、その内側と外側の認識には大きな溝が生まれます。

ということは、利害関係によって日常的にそこら中に生まれる溝に、私達は気づくはずもありません。

「なんでアイツは、これだけ人が傷つく様なことをしておいて、この程度で済まそうとするのか!?」

と思っていても、相手は十分に償っているつもりかもしれません。

「こんなに反省し、これだけ償っているのに、アイツはどうして分ってくれないんだ!?」

と思っていても、相手からすればアナタの態度は全く反省している様に映ってはいないのかもしれません。

「相手の気持ちになって考えよう」

小さな頃に、親や学校の先生から教えられているはずの、このコミュニケーションの基本の大切さが、今更ながら感じられます。
アナタは、きちんと出来ているでしょうか?

いくつになっても、なかなか出来ないもんですぜ。┐(  ̄ー ̄)┌ フッ・・・


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経済的奴隷

intro:

数年前に「楽して儲かる方法」とかを謳った商売が流行りましたが、それと共にインターネット上では

「経済的自由」

という言葉が流布していました。
働かずに暮らせるだけの不労所得を得ることで、会社とか人間関係に縛られずに暮らそうという意味で使われていた様です。

で、当時の私はその言葉を目にする度に、辟易していたことを覚えています。
「自由」という言葉が、誰もが持つ心の弱さの中で別の何かに摩り替わってしまっていることに。

でもね、仮に大金を手にしても、その手のキャッチに飛びつく人は、自由なんて得られないんですよ。
むしろそれは、経済的奴隷への第一歩なのかもしれません。

main:

例えば、「仕事上、新たな手帳を使う必要性が出てきたAさんとBさん」を想定してみましょう。
で、手帳を買うことの出来る余裕資金は、Aさんが500円、Bさんが5万円です。

そう、Aさんはとっても貧乏サラリーマン、でもBさんは実家から会社に通うけど家には生活費を入れなくても良い気軽なサラリーマンなんです。

さて、それではAさんとBさんでは、どちらが経済的に自由なのでしょうか?

恐らくAさんの資金では、「手帳」と呼べる様な代物を購入することは難しくなりますから、今使っている手帳を使いまわすか安物のノートで代用するハメになるでしょう。
仮に500円未満の手帳を見つけても、そこには「色んな手帳を選ぶ」という選択の余地はありません。

う~ん、不自由ですねぇ・・・

それに比べて5万円もの資金があるBさんには、多くの選択肢が存在します。
今回の仕事の内容にあった仕様の手帳を選びつつ、また好みのデザインを探すことが出来ます。

1500円程度の手帳で済ますこともできますし、フランクリンの手帳でも買って計画的に目標達成を目指すことだって可能です。
仕事内容にあわせて色を考えたり、手帳カバーの革の手触り感なんかも気にして手帳を選ぶことだって出来るんです。

Aさんから比べたら、Bさんは圧倒的に多くの選択肢を持っています。
つまり、その分だけ自由だということになるでしょう。

でも、それは限定的な意味での自由、消極的な意味での自由でしかありません。

 

選択肢を多く持つということは、確かに自由ですが、それは限定的な意味においてです。
だって、選択肢が沢山あっても、Bさんが自由に振舞えるとは限らないからです。

沢山の選択肢の中では、色んなものに目移りして選択に迷ってしまうかもしれません。
より良いものを選択しようとして、逆にもっともらしい宣伝に踊らされ、不必要な機能や仕様まで持った手帳を購入するかもしれません。
資金に余裕がある分、他人の目を気にして、自分の見栄を満たすことを兼ね備えた手帳を無意識に選ぼうとしているかもしれません。

で、そんな状態のどこが自由なんでしょうか?
何か別なものに縛られてしまっている状態のどこに、自由があるというのでしょうか?

結果的にBさん自身は手帳を購入してご満悦でも、他人から見れば、

「別にあんな手帳いらなくね?」

と一笑に付されるかもしれません。

 

Bさんが自由であるためには、まず“何か”に縛られずに自由に発想することで、沢山の選択肢を見つける必要があります。

資金に余裕があると価格や機能の高いものの方へだけ選択肢が広がっていきがちです。
でも、実際はAさんの様に、今使ってる手帳で済ましたり、100円ノートで代用しても十分だったりするかもしれません。
「え?こんな発想もあるんだ!」なんて具合に、他の人にはなかなか見つけられない選択肢を見つけ出すことだって、素敵なことです。

見栄や怠惰心、常識などに縛られず、あらゆる可能性から選択肢を見つけ出す能力。
それが、自由を手にするために必要なことの1つです。

また、自由であるためには、見つけた選択肢の中からより最適なものを選び取る能力が必要になります。
多数の選択肢を持っていても、どーでも良い様なモノゴトしか選択できなければ、意味なんてありませんから。

見栄や怠惰心、常識などに縛られず、自分にとって最適な選択肢を選び取る能力。
それが、自由を手にするために必要なことの1つです。

そして、さらに付け加えるならば、選択したモノゴトをどれだけ活用できるか?ということも重要です。

せっかく最適なものを選んでも、使いこなせなければ意味がありません。
使いこなせてこそ、初めてBさんは自由に振舞えていることになるわけです。

要するに、自由であるためには、複数の選択肢を持てる環境にあっても、

  • 選択肢を見つけ出す能力
  • 最適なものを選び出す能力
  • 選択したものを使いこなす能力

がなければ、決して自由であるとは言えないのです。
これらの能力を持つことを、消極的自由に対して「積極的自由」と呼びます。

 

さて、ここで今一度、振り返ってみましょう。

先に、「限定的」「消極的」だと説明した自由とは、“より多くの選択肢を持つことが可能な状態”のことです。
手帳を買うことに対して、Aさんには極わずかな選択肢しか残されていませんでしたが、Bさんは多くの選択肢を持つことが可能です。

しかしそれは、可能性の問題であり、自分自身が自由だというよりは、そういった環境にあるかどうかだけの問題です。
仮に大金を手にする力が自分にあったとしても、それを使う段階においてはただ“より多くの選択肢をもつことが可能な状態”でしかありません。

そんな中、先の能力、つまり積極的自由を持ち合わせていなければ、私達は与えられた環境に振り回されてしまうだけです。
欲や見栄に惑わされ、無知や無謀さに足を引きずられます。

つまり、安易に不労所得や大金を手に入れることで「経済的自由」を得ようとしても、実は自由どころかそれらのお金に振り回される奴隷となってしまう・・・

そう、これが経済的奴隷になってしまう理由です。

より多くの選択肢を持つことが可能な状態が自由だと思うのは、お門違いです。
そんな可能性を持っただけでは、人は逆に不自由になっていきます。

逆にAさんの様に多くの選択肢を持てない環境にいた方が、別な選択肢を探したり、効果的な選択肢を選び取ろうとして、自由に振舞えたりすることだってあるんです。

アメリカでは、宝くじの高額当選者の9割が破産するそうです。(きちんとしたデータを見て言っているわけではないので断言は出来ませんが)
スターと呼ばれる人達が売れなくなっても普通の暮らしが出来ずに破産してしまうケースは後を絶ちません。

大金が欲しいのは普通、誰でも同じことです。
むしろ、金銭欲を持つことは大切なことですし、それによってこの国の経済は回っています。

しかし、お金が欲しいのと経済的自由が欲しいのとでは、大きく違います。
単に「楽ができて、何となく欲しいものを手にできて、何の不安もなく・・・」といった自分の怠惰な心を、「自由」とかいう一見綺麗な言葉に摩り替えてしまうのは、自由になるのではなく奴隷になること。

そう心得ておくだけでも、ちょとは自由に生きられるかもしれません。

ps:

さて、今回の記事より、今日この後発行されるメルマガの構成が大幅に変わります。

メルマガと併読されている方は、感想を教えてくれるとありがたいです。コチラのページを用意しましたので、ご協力ください。

なお今後、ブログで未公開のお話が、メルマガでは展開されることになります。気になる方は、ぜひコチラのページよりメルマガにご登録ください。


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100億円を寄付するよりも

東日本大震災において、被災地への義援金が多方面から送られている様ですが、中でも飛び抜けて額の大きい個人の寄付が何かと話題となっています。

ユニクロの柳井正会長が10億円の寄付。
楽天の三木谷浩史社長も10億円の寄付。

ゴルフの石川遼くんだって、マスターズから今期の獲得賞金の全額を寄付すると決めたそうで。

すっごいですねぇ・・・(所ジョージ風)

中には、これらの行為を「売名行為」だとか「偽善」だとか言う人もいるようですが、しかしそれは穿った見方なんじゃないかと。

下心にしては額が大き過ぎますし、仮にそうであったとしても、偽善のお金だって被災者の手助けになりますからねぇ。

事の真相よりも、その決断力と行動力を評価すべきなんじゃないかと。

 

で、そんな中でも驚いたのはソフトバンクの孫正義社長。

なんと100億円の寄付!
桁が違い過ぎます。

だって100億円っていったら、1万円札が1,000,000枚、1円玉だったら100億枚ですよ、多分。
桁が多過ぎて、逆に金額が大きいのかどうなのかも分らなってきました。

 

・・・って、いや、言いたいことはそんなことじゃありません。

私が驚いたのは、孫氏が100億円を寄付するということよりも、

「引退するまでソフトバンクの役員報酬を全額寄付する」

ということです。
現在53歳の孫氏は、60代での引退を表明していますから、少なくとも後7年は役員報酬全額を被災地に送り続けるとことになります。

これって、どういう意味かわかりますか?
引退するまで報酬の全額を寄付するという意味が。

孫氏がソフトバンクの社長として過ごす今後全ての時間は、東北の被災地のために費やされることになるわけですよ。

ということはつまり、これから孫氏がソフトバンクで働くのは、自分のためではないということです。
実質的には、日本のため、日本の被災地のために働くということになるわけです。

時は金なりと言いますが、お金だけでなく時間までもを公のために費やすことになります。
いくら金が有り余るほどの大金持ちだって、並みの人間ならそんな決断は出来ません。

「私心があっては、志とは言わんきのぉ」

これは、孫氏が大好きな坂本龍馬を描いたドラマ「龍馬伝」で、龍馬が放った言葉です。

そして昨年、坂本龍馬が流行った時は、気安い「志」がそこら中を闊歩していた記憶があります。特にTwitter上で。

しかし、本当の意味で高く志を掲げ、それに向かって突き進んでいる人は、一体どのくらいいるのでしょうか?

 

 
先日、Twitterにてイオングループ企業の取締役になりすました人物が、100億円の寄付について孫氏に対し、

「同じ経営者として失望」

とつぶやき、その後騒動になるという一件がありました。(イオングループ企業、取締役なりすましTwitterが原因で炎上 「法的措置も」/ITmediaニュースより)

そしてこの時、この人物がなりすましだと気づかなかった孫氏は、このつぶやきに対して、こう返答しています。

「投資家失格でも構わない」

 

今回の震災に対する孫氏の一連の対応を見ると、そこに私心があるかないかはどうでも良い気がします。
少なくとも私は、孫氏の決断と行動は、単なるパフォーマンスを大きく越えて、氏の志を体現していると感じています。

そして私は今、孫氏が昨年の夏にTwitter上でつぶやいた言葉を思い出し、それを噛み締めています。

「私は、信念を持って生まれて来た。志は、成して見せる。」

たった1行ですが、凄みの伝わってくる言葉です。

お勧め書籍

志高く 孫正義正伝 完全版 (実業之日本社文庫)
井上 篤夫
4408550191

1代にしてしてソフトバンクグループを築き上げた孫正義社長の半生を、著者である井上篤夫氏が取材してまとめあげたのがこの本です。自伝ではないので、どや顔的な雰囲気はありません。

もちろん、こういった本は主人公寄りのポジションで書かれていると思うので、客観性が何処まで保たれているかは不明ですが、それでも本を読む限り、各出来事に関する日時や場所に具体性があり、また時系列もシッカリしてますから、きちんと取材されて書かれたんだなということが伝わってきます。

この本のテイストは、ソフトバンク社長の評価本・ヨイショ本というより、孫正義という人間の生き様本に仕上がっているという感じでしょうか。現実の人物を通すことで、1つの大きなドラマを読者に見せたいという著者の気持ちが感じられます。

「志」とは何なのか?
「事を成す」ということがどういうことなのか?

それらが、孫氏の生き方から伝わってきます。

これを読むと、やはり大切なのは決断力と行動力、そして信念なんだな、と感じます。

そして、それらを支える孫氏のメンタリティーが、ポジティブであり、またそのポジティブさが、良くある自己啓発系のインチキ・ポジティブシンキングではなく、リスクをきちんと想定し、そのリスクをとる覚悟のもとにあるということも、きちんと伝わってきます。

成功法則だとか成功ノウハウだとかを読む暇あったら、ぜひ読んで下さい。

ps:

まあ、だからといってケータイはドコモのまんまなんだけどね。
ソレはソレ、コレはコレ、ってヤツですぜ。

┐(  ̄ー ̄)┌ フッ・・・


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今、飛び交う「自分にできること」

intro:

周知の通り、先週3月11日に起きた東日本大震災によって、言葉を失うくらいの被害が起きています。

被災地では、悲痛な叫び声と、それでも逞しく生きようとする心と絆が交錯しています。
自衛隊や医療チーム、世界中からの支援団体など、災害時におけるプロ達が、被災地に駆けつけ、一刻も早い救済と復興に力を注いでいます。

そして、その様な壮絶な光景を、自宅のテレビやラジオ、新聞などによって知る私達・・・

もちろん、そんな私達だって、この様な状況を目の当たりにすれば、悲痛な思いを感じるだけでなく、

「助けたい」
「協力したい」

という気持ちに駆られます。

しかし、だからと言って、それぞれの生活を抱える私達の皆が皆、現地へ駆けつけて支援活動を行なう余裕があるわけでもありません。
例え現地へ駆けつけたとしても、協力できるだけの知識や技術があるわけでもありません。

私達にとって、できることは限られているわけです。

そう、私達にできること・・・

今、インターネットをはじめ、私達の周りにはそんな

「私達にできること」
「自分にできること」

という言葉が溢れています。

main:

で、そんな「自分にできること」を、今一度考えてみようかと。

関東にいて被災地にいない私ができることは何か?と考えてみると、まずは義援金と節電、そして買いだめを控えることが思い浮かびます。

素人感覚で救援物資を送ると、独りよがりなものになる可能性が高いため、お金そのもので協力することが、かなり有効な手段だと聞きました。
一応、私も昨日、義援金という形で、わずかながら協力させてもらいました。

関東でも食料やガソリン、電池などが手に入りづらい状況が続いていますが、それは流通遮断の問題と共に、買いだめが大きな原因となっている様です。
物資が広く行き届く様にするためには、買いだめを控えることが大切です。

また福島原発の事故などにより、東日本は電力不足となっています。
停電による混乱を招かないためにも、個人単位での節電が大切です。

 

とまあ、ざっと考えると、これらが「自分にできること」になります。

しかし、「自分にできること」とは、本当にこれだけでしょうか?
これらのことは、確かに「自分にできること」ですが、「皆でできること」でもあるわけです。

そして今、もう1つの「自分にできること」が静かな論争となっています。

 

 
悲痛な出来事を目の当たりにすれば、周囲の私達が自粛ムードに駆られるのは当然のことです。
被災地に家族や親戚、友人などがいれば、尚更のことです。

お隣が火事なのに、お祭りを楽しむなんて出来やしません。

しかし、別の見方をすれば、それは「自分にできること」なんでしょうか?
むしろそれは、「自分がしないこと」だと思うんですが。

 

短期的に見た場合、目先の物資とお金、そして救援活動は優先事項です。
しかし、中長期的に見た場合、被災地の復興に必要なのは、日本の経済基盤そのものです。

経済基盤が磐石でなければ、結果的に復興には時間がかかります。
インフラや住居などの設備が整っても、経済がダメであれば、被災者に仕事はありません。

そこでどうしても必要となるのは、私達が今の経済基盤を支えていくということになるわけです。

そう考えると、「活動自粛」というのはいかがなものでしょうか?
 
確かにモラルの面から考えて、節度は必要でしょう。
被災者だけなく、被災地にいる親類縁者の安否を気にする人たちへの配慮も大切です。

しかし、それはある一定の範囲内に収めるべきです。

だってね、遠くのお祭り騒ぎの自粛は、被災地の救済そのものには、何も繋がらないんですから。

むしろ、品質の高い商品やサービスを作り売って、キチンと稼ぐ。
そして、有益なことに対してお金を使う。

その様な活発な経済活動こそが、中長期的に被災地の復興活動を支えていくことになるわけです。

被災地の復興にとって必要なのは、励ましの声と経済活動によって生まれた産物(物資・資金・労力)を送り続けることです。
しんみりと時を過ごすことは、被災地の復興には何の役にも立ちません。

 

震災後、株価は急落して、あっという間に日経平均は9,000円台を割り込み、また昨日は日本円がドルに対して史上最高値を記録しました。
日本の経済状況だって、津波が去った後の瓦礫の様に、不安要因ばかりがゴロゴロと転がっているわけです。

ですからそんな中、義援金や節電等の「皆でできること」以外で、自分にできることというのは、

「自分自身の日々の暮らしを守っていく」

ということに他なりません。

経営者には、経営者にできること
会社員には、会社員にできること
主婦には、主婦にできること
学生には、学生にできること

皆それぞれ、持っている役回りというものがあり、それが1つの社会として繋がっています。
ですから、それを自覚して日々を振る舞い、役割を果たしていくことは、思っている以上に大切なことです。

ps:

しかしまあ、この様なことを言うと、気分を害す人もいる様です。
不謹慎だの、逆にキレイゴトだのと言われてしまうみたい。

震災の次の日、400Mハードルの為末大選手が、

アスリートにできること

と題したメッセージをブログにて発信しましたが、これに対しても反論が数多く飛び交っている様です。

で、そんな中、政府と東京電力では福島原発の作業員退避を巡って押し問答が起きています。

また、プロ野球ではセ・リーグが開幕を延期しないことにより、球団側と選手会側では意見が分かれている様です。

まあ、意見は多種多様であって良いと思います。

が、互いに相手の“言わんとすること”を汲みつつモノゴトを考えていかないと、どんなに言葉を交わしたところで、そこには亀裂しか生まれません。

今の日本は、ひとつになるべき時だと思いますが。


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