人生なんて、しょせん下書き

自分の人生を、そしてビジネス・シーンを自由に駆け回っていくための、「こころ」と「あたま」と「おかね」の使い方。そんなお話でもしようかと。

ケリをつける生き方

intro:

東京の、しかも駅から間もない場所とは思えない風景に囲まれた山の麓。
少し肌寒さを感じながらも、辺りを見渡せば草木にはいまだ緑が色濃く残っています。

アナザー神社こと穴澤天神社の鳥居前

アナザー神社。
ヒッソリとたたずむ鳥居をくぐり、急な階段を息を切らせながら何度も踏み越えた先に、その神社はあります。

アナザー神社こと穴澤天神社へと続く階段

高ぇよ、この階段・・・

もちろんアナザー神社って、私にしか通用しない通称です。
正式名は穴澤天神社とか言うらしいです、たしか。

アナザー神社こと穴澤天神社

 

新年明けましておめでとうございます、小林ノリユキです。

一流のワルで名の通った私は昨日、近所のアナザー神社へと初詣に行ってきました。

神社に行く度に思うのですが、そこは日常とは一線を置いた異空間の中にあります。
それは、時間の流れが、ゆったりと流れていくというか。

霊験あらたか、とはこの事を言うのかもしれません。

でも、どんなに時の流れがゆっくりと感じられても、私の抜け毛のスピードだけは誰にも止められないぜ。

┐(  ̄ー ̄)┌ フッ・・・

おっ!新年一発目の今日も、どうやらカッコ良く決まったみたいですぜ。

main:

人生には“節目”というものがあります。

いや、個人の人生だけではありません。
私達の暮らすこの社会そのものに、節目というものが数多く存在します。

でも、ちょっと待ってください。
節目って、ホントにあるんですかね?

日本には四季がありますが、春夏秋冬を明確に区別する境目って、一体どこにあるんでしょ?
子供と大人の線引きって、一体どこにあるんでしょう?

明確にそれらを区別する境目って、ありません。
だってモノゴトは、連続した時間の中で徐々に移り変わっていくんですから。

はじめから夏と秋は別々に存在しているのではありません。
深緑の木々の夏は、徐々にその色を赤らめながら秋へと向かいます。

モノゴトは、常にきちんと区切られて存在するわけではありません。
私達が暮らすこの空間は、曖昧さの中にあるわけです。

あまりにも不確定で曖昧な存在・・・

ところが私達は、明確に何かを区別しながら、生活をしています。
夏と秋、子供と大人、昼と夜、白と黒・・・

そしてそこには、先人達の知恵があります。

学術的な小難しい話は割愛しますが、人は古来から曖昧な時間や空間に、自分達の手で境目を創り出してきました。
あるモノとあるモノとの間に、日常から切り離された異質な空間を創り出し、それを境目とするわけです。

それは“祭”の形をとって騒いだでみることだったり、“式”の形をとって厳かに儀式を行なうことだったり。
ある特定の場所にそこにしか存在しない空間を創り出し、その中に身を置きます。

元旦、元服(成人式)、結婚式・・・

これが“節目”です。
人は、連続しながらも移り変わる曖昧な日常に、節目となる異質な空間をわざわざ用意し、それを乗り越えることで成長していくわけです。

大晦日から元旦へ、子供から大人へ、独身者同士から夫婦へ。

明らかに日常とは切り離された異質な空間。
日本では、各地に点在する神社がその1つです。
セミの五月蝿く鳴く夏の日差しの中にあっても、なぜか境内は涼しく静かにたたずんでいます。

 

何かを始めよう!
心を改めて、イチから始めよう!

そう思いながらも、なかなか始められない人って結構います。

そんな人は、節目を創ることが必要です。
現在と未来を分け隔てる節目を創ります。

私達の祖先は、ずっとそうやって暮らしを続けてきました。
連続した日常に、区切りをつけるわけです。

ケリをつける、ってこの事なのかもしれません。

ポイントは、日常から切り離された時間と空間を創ることです。

わざとハードな条件を作ってみて、1日中それに没頭してみるのも節目になります。
時間とお金があるのであれば、旅に出るのも良いでしょう。

境内に身を置いて、霊験あらたかな気分を味わうのも手です。
もちろん神社でなくとも、お寺や教会でも構いません。

大切なのは、古来から伝わる先人の知恵を借りることです。
そしてそんなものは、私達の身近に常に存在しています。

その辺で売っている成功者の安っぽいセリフを、アナタが必要とする理由なんて、実はそれほど多くはありません。

ps:

現代社会では、その節目自体が日常化しつつあります。

昔ほど正月は厳かに暮らすことはありませんし、成人式だって太古では困難な試練と形式と共にありました。
昔は、大人になるのって、大変だったんです。

ああ・・・新年早々、なんか良いお話をしてしまいました。
私って、なんだか今年も素敵みたい。

でも、私には頭皮とオデコの節目がない、ってのが玉に瑕みたいですぜ。

┐(  ̄ー ̄)┌ フッ・・

ということで、今年もヨロシクお願いします。

post by ノリユキ at 13:31 | コメント・トラックバック(0)

良いお年を

昨日は仕事が忙しくて、お家には帰れない始末。
仕事を終えた後は終電もないし、朝まで飲んでました。

ということで、今日の私はちょぴり体調不良気味。
1年の締めくくりの日だって言うのに。ま、いっか。

さて、私は今、「K-1 Dynamite!!」をテレビで観ながら、今年1年を振り返っています。

色々とあった気がします。
気がするだけかもしれません。

まあ、いずれにしろ来年は、今までと自分を取り巻く状況が変わっていくんじゃないかと。
そんな気がします。

なんで、来年は色々と今までやってきたことを変えていったり、新しいことをはじめてみようかと。

じゃ、また

それじゃ、また来年。

post by ノリユキ at 20:30 | コメント・トラックバック(0)

捨てられない人のための捨てテク!

intro:

カタチのあるなしにかかわらず、今は身の回りにモノが溢れている時代です。
ですから今時の整理上手さんって、モノを捨てるのが上手い人のことです。

もちろん、一流のワルで名の通った私も、捨ててばかりの人生です。
今まで、数々の女たちを捨ててきました。

ん?ひょっとして、疑ってます?

でも残念ながら、それは事実です。
モテ・キャラの私は、今までに数々の女性を捨ててきたんです。

「見捨てられたのは小林さんの方じゃ・・・」
「捨てたのは、自分の髪の毛だけですよね?」

そんなコメントは必要ありませんので、送ってこないで下さい。
人は事実を突きつけられると、傷つく生き物なんです。
年末くらいは、妄想の中に浸らしてください。お願いします。

でも、そんな私が平気で捨てられるのは自分のプライドだけ、って話は知ってても誰にも言っちゃいけませんぜ。

┐(  ̄ー ̄)┌ フッ・・・

main:

身の回りがモノで溢れかえってゴチャゴチャになっているのに、なかなか捨てられない。
捨てようと思いつつも、なかなか捨てられない。

世の中、そんな捨てられない人達ばっかりです。
もちろん、私もそんな中の1人です。

でも、近頃の私は一味も二味も違います。
ガンガンと捨てちゃいます。

実は先月、引越をしたんですが、以前より間取りの狭い空間の中で、以前よりも広々と暮らしています。
だって、ガンガンと捨てちゃったんだもん。

ということで、今日は捨てられない人のための捨てるテクニックでもお話しようかと。

 

例えば、「本を捨てよう(もしくは売ろう)!」と決心したとしましょう。
アナタは本棚に向かい、たくさん溜まった本を1冊ずつ手に取り、どれを手放すか吟味に入ります。

そして結局、捨てられねぇ。
100冊あったとしても、捨てられるのはせいぜい5冊がいいとこです。

「いずれ読み返すかもしれない」
「何かあったときに、資料として必要になるかもしれない」
「記念にとっておきたい」

いずれにせよ出てくるのは、“捨てられない理由”ばっかりです。
捨てる理由は何ひとつ見つからず、捨てられない理由ばっかりが、次から次へと後を絶ちません。

なぜ?

それは、愛着があるからです。

「捨てる」ということは、モノそのものだけじゃなく、モノに対する愛着も一緒に捨てるということです。
ですから、上手く捨てるためには、その愛着を断ち切らなければいけません。

じゃあ、どうやって?

 

まずは、ジャンルごとにグループにしてまとめます。

例えば、数ある本の中から「Web2.0」というテーマで括って、本を取り出します。
まあ、仮にそれが10冊程あったとでもしましょうか。

次にその10冊を個別にではなく、「Web2.0」というテーマに沿って検討していきます。
個別に検討するのではなく、“全体的”に見て必要かどうかを考えていくわけです。

本Aでは〇〇の説明が詳しいけど、もう内容は理解してる・・・
それだったら、本Bの方の簡単な説明だけど全体的にバランス良く情報が載ってるし・・・

なんて具合に。

すると、どうでしょう。
それぞれのテーマごとで見ると、10冊中3冊くらいしか保管しておく意義がないことに気が付きます。
なんで、7冊は捨てちまえっ!ってことになるわけです。

ちょっと実際にやってみてください。
本じゃなくても、ペンケースに溜まりに溜まった筆記用具たちでもいいですし、何でもOKです。

ポイントは、個別に捨てるかどうかを検討しないことです。

1つ1つ取り出して、いるいらないを検討するんじゃありません。
1つのジャンルにまとめて“全体”を見ながら、必要・不必要なものをピックアップしていくんです。

 

人は、1つ1つを見つめることで、愛着に縛られ、手放せなくなります。
でも、1つのジャンルで括って全体から眺めてみると、何が必要で何が不必要かを、アッサリと判断できるようになります。

実はこれって、企業がやる「リストラ」と同じ要領です。

どんなに経営難の会社でも、1人ひとりの顔を思い浮かべたら、簡単には従業員を切り捨てられません。
でも、会社組織全体から眺めていくと、個人の顔が見えなくなります。

「この部署には定員10名が最適、こっちの部署はあっちの部署と合併すれば必要ないな・・・」

ってな具合に、愛着から離れて、切り捨てることが出来るようになるんです。

 

ちょっと話がシビアになってしまいました。
でも、自分が快適かつ合理的に動くためには、そんな非情さが必要な時代です。

そして、身を切る想いで切り捨ててみたら、意外と心の中はサッパリと清々しい気分になっている自分がいることに気が付きます。
これまたシビアな話ですが、現実です。

温かさと冷たさの両方を兼ね備えているのが、人間の性(サガ)。
キレイゴトだけで、人間は決して語れません。

ps:

結局、引越しの際にかかった粗大ゴミの料金は3万円以上・・・

私の住む地域では、粗大ゴミのほとんどが1コ500円で回収してもらえるので、捨てたのは50点以上です。
それ以外にも、普通ゴミやら不燃ゴミやら、大量に出ました。

今は、捨てるのにもお金がかかる時代です。
ですから、きちんと捨てられる人は余計なモノまで買うことはしません。

捨て上手は買い物上手。

来年に向けて年末の大掃除は、捨てる事に挑戦してみるのも良さそうですぜ。

┐(  ̄ー ̄)┌ フッ・・・

post by ノリユキ at 13:38 | コメント・トラックバック(0)

Merry Christmas Mr.Hageta!

そういえば、昨年のクリスマス・イヴは家にも帰れず、独り仕事先の座布団の上で過ごしました。
で、今年もきっとそうなんだろう・・・なんて心構えだけはしておいたんですが、無事に帰ってこれました。よかった、よかった。

とは言いつつ今、私は自宅で「明石家さんた」を見ながら、独りPCの前でこのエントリーを書いてます。
昨年とたいして変わらねぇし。

で、今日(というか正確には昨日の夕方)、クリスマス・ケーキを貰いました。
手作りなんでしょうか、ご丁寧に名前入りのオリジナル・ケーキです。やったね。

 

クリスマスケーキ to hageta

 

つか、私の名前が「はげた」になってますが・・・

post by ノリユキ at 2:34 | コメント・トラックバック(0)

偽と謝と情と

intro:

一流のワルで名の通った私は、騙し騙され裏切り裏切られの人生を今まで送ってきました。

ですから当然のごとく、人を見抜く力に長けています。
敵と味方を見分けるための、鋭い洞察力を身に付けているわけです。

自慢じゃありませんが何と最近では、EXILEのボーカルATSUSHIとサングラスをかけた亀田興毅の区別が一瞬でつく様になりました。
どうだ、凄いだろ。

一流のワルは、常に成長を続けていくものなんですぜ。

┐(  ̄ー ̄)┌ フッ・・・

main:

清水寺の貫主が嘆いています。
なんでも今年の世相を表す漢字は、「偽」に決まったんだとか。

ミートホープ、不二家、白い恋人、赤福、船場吉兆、マクドナルド・・・

確かに今年は、企業による偽装が山のように発覚した年でした。
食品以外にも、建築物の偽装とかもありましたね、そう言えば。
まさに「偽」の文字がふさわしい1年だったのかもしれません。

もちろんスポーツの世界でも、「偽」の文字が似合う話題がありました。

朝青龍、亀田家・・・

起こした問題が大きくなると、彼らはしばらくの間、公に姿を現しません。
しかし、世間はそれを許しません。

そして謝る。
すったもんだの末、ようやく謝罪会見が行なわれます。

そして、一件落着。
経緯はどうであれ、謝れば世間は彼らを許します。

朝青龍の件では本人の謝罪後、どちらかと言えば歓迎ムードです。
亀田家問題に関しても、次男の謝罪の囲み(?)にはブーイングがあったものの、長男の興毅選手の謝罪会見にて事態は一件落着です。

そう、思い出しました。
あの感慨深い謝罪会見。

直立のまま真直ぐを見据えて誠実に謝る姿。
どんなに非難されようとも父親をかばう姿。

10月末の興毅選手の謝罪会見を見て、立派だったとか男を上げたとかの高評価をする人がたくさんいたはずです。
私だって、ちょっとだけ目頭が熱くなりました。

でも、ちょっと待ってください。

彼はボクシングの世界戦で反則を指示し、さらにはその行為を「あれは亀田用語」と偽装したわけですから、謝るのは当然なんです。
悪いことをして謝るのは、ごく当たり前のマナーのはずです。

なのに、謝って「立派」と言われてしまうのは、一体何なんでしょう?

食品偽装が発覚した会社の社長さん達なんて、どんなに頭を下げたって簡単には許しちゃもらえないんですよ。

健康被害がなくとも食品を偽装したら、謝っても許してもらえない。
反則指示で対戦相手が健康被害を受けても、謝ったら「立派」と誉められる。

世の中って、不思議なことでイッパイです。

ミートホープの社長の息子は記者会見の席で、「社長、本当のことを言ってください」と父親に詰め寄りました。

でも仮に、亀田家の様に彼が振舞ったらどうなるんでしょ?

事の首謀者であるミートホープの社長は会見に姿を現さず、その息子が出てきて謝罪。
しかも、その会見の席で

「俺にとっては、最高の父親」

とか言ったら、どうします?
日本中が額に青筋立てて、怒りまくりですよ。

「消費者を、舐めんじゃねぇよ!!」

ってな具合に。

 

いいですかい?

「興行」というビジネスの枠の中で活躍するキャラクター(タレント)は、いわばそれそのものが商品です。

自然とそこには愛着が沸いてきます。
商品とそれを受け取る人(消費者)の間には、愛着のある関係が生まれるわけです。

好きも嫌いも、それは愛着です。
そしてそれは、どちらかと言えば“温かい”情の世界なんですね。

ところが、その商品を売る側と消費者の間には、そんな温かい関係は自然発生してくれません。
最初からそこにあるのは“冷たい”情の世界です。

経営者や企業 = 悪

そんな感情が、消費者の心の裏側にはヒッソリと潜んでいます。
だから、経営陣がどんなに謝ったって、簡単には許しちゃもらえません。

 

「商品」と「商品を売る側」。

一見同じ様でいて、消費者からすれば全くの別物です。
商品を売る側に対して消費者は、あくまでシビアなんです。

ですから、ビジネスの世界で生きる私達は考えなくてはいけません。

自分達の会社そのものが、いかに消費者から受け入れるかということを。
商品だけでなく、いかに企業そのものに愛着を持ってもらえるかを。

企業そのものが温かい情でもって受け入れてもらえる、そんな状況を作り出すこと。
それをビジネスの世界では、

「ブランディング」

って、そう呼んでいます。

ps:

申し訳ございません。
たった今、私は「ブランディング」というものの謎を、新しい視点から世界で初めて解き明かすことに成功しました。

しばらくこのblogを更新しない間に私は、飛躍的なレベルアップを遂げ、偉大な人物となってしまった様です。

皆様方にとって遠く手の届かない高貴な存在にのし上がってしまった私を、どうかお許しください。
この場を借りて、謹んでお詫び申し上げます。

そして、皆様。
どうぞこんな素晴らしい私を褒め称えてください。

さぁ早く。
遠慮はいらない。
早く褒め称えるんだ!

 

しばらくblogを更新しなかったことを素直に謝れない、そんな自分がとっても可愛らしく思えてきましたぜ。

┐(  ̄ー ̄)┌ フッ・・・

post by ノリユキ at 12:21 | コメント・トラックバック(0)