人生なんて、しょせん下書き
二元論の歪み
情報が氾濫する現代社会。
おまけにそんな情報は、スピードも難易度も相当高い。
現代は、情報そのものが厄介な代物となっているわけです。
これでは情報を取捨選択しようにも、大変です。
ですから、どうしてもわかりやすい情報に飛びつきやすくなります。
気がつかないうちにね。
そして、そんなわかりやすい情報の代表格が、二元論。
ところが、二元論は完璧ではありません。
多くの欠点を抱えています。
二元論が抱えている問題点を、ちょっと見ていきましょう。
情報が捻じ曲がる
本来モノゴトの多くは、2つの要素だけで成り立っているわけではありません。
色々な要素が複雑に絡み合って、成立しています。
それが現実の社会です。
そんな世の中で物事を二元化してしまえば、流されている情報は明らかに捻じ曲がっていきます。
いくつもある事象をたった2つにしてしまうということ。
それは、省略と四捨五入の繰り返しです。
情報を二元化して伝えれば、いつかは事実とは違っていきます。
情報の受け手が、その情報をそのまま受け入れてしまえば、必ず事実とは違う認識が生まれてしまうんです。
思考の欠落
「成功」や「失敗」。
また、ここ数年よく耳にする「勝ち組」と「負け組み」。
これらは単なる結果論です。
分析に基づいた過去の事実や傾向を単に2つのカテゴリーに分けて説明ているに過ぎません。
もちろん、この様な過去の分析は、自分自身の参考や教訓にするべきものです。
けれどもそれは、あくまで“ヒント”であって、アナタが行なうべき“ルール”ではありません。
各自が自分の状況や性格、方向性を考慮しながら、取り入れるべきところは取り入れ、変更すべき点は手を加えていくものなんです。
ところが、何かと直ぐに“答え”ばかりを求めてしまいがちな現代社会。
情報の氾濫は、更にそれに拍車をかけます。
情報処理が煩雑となり、“自分で考える”という作業が抜けていくわけです。
何の考察もなく、その情報を“答え”として受け入れてしまいがちになるんです。
「Aの様になりたいのですか?嫌ですよね。なりたくなれければBしなさい。」
二元論ではそんな風に、誰か他人の歴史がアナタの未来に当てはめられ、誰かの失敗が、まるでアナタの失敗であるかのように語られ続けます。
けれども、それは決して“答え”ではありません。
単なる“情報”なんです。
他人の成功も失敗も、即アナタの成功や失敗に結びつくわけじゃありません。
しかし、現代社会はアナタから、その情報を“考察する”という余裕を奪っていきます。
そして、いつの間にか単なる“ヒント”が、アナタの“答え”となり、アナタの“ルール”に摩り替わっていく。
言われるがままにそうしなければ、自分が間違いなのではないかという気持ちにさせられてしまうんです。
特に二元論は感情移入しやすい。
ですから、そんな情報を“考察する”ことなく、そのまま受け入れてしまいます。
そうやって気がつかないうちに、アナタの行動規範はアナタ以外の“何か”によって決められていくことになります。
用意された答え
二元論の場合、2つのうち一方が、情報発信者の意図する「答え」として伝えられることになります。
例えば、Aさんがアナタに、夜型人間から朝型人間になってもらいたいと思ったとします。
Aさんはきっと
「早起きをするとね・・・」
と言って、早起きすることの利点と早起きをしないことの欠点をAさんに説明するでしょう。
つまり、
早起きする事 = 正解
早起きしない事 = 間違い
これを前提として、Aさんは話を展開させていくわけです。
確かに一般的な見解や要因として、早起きは正解です。
けれども、どうしても早起きをしなければならない、なんてことはありません。
早起きをしなくとも、充実した生活は送れます。
そんな方法は、いくらでもあるはずです。
ひょっとするとアナタは、夜型のほうが向いているのかもしれません。
なのに早起きが「正解」となるのは、Aさんがアナタに早起きしてもらおうと思っているから。
つまり、これはAさんが用意した“答え”なんです。
決して、アナタの“答え”なんかじゃありません。
情報発信者が用意した“答え”が、必ずしもアナタにとっての正解とは限らない。
そういうことです。
大勢による偏り
ところが、どうしても世間では、片方の“答え”ばかりが、目に付いてしまいます。
早起きを勧める情報は沢山あっても、早起きをしなくとも快適に生活できる情報はなかなか見つかりません。
成功した人の朝型人間ぶりは色々と採り上げられても、成功した人の夜型人間ぶりは、エピソードとしてあまり語られません。
どうしてでしょ?
少なくともこの日本は、資本主義の原理で動いています。
需要のあるほう需要のあるほうへと物事は流れていき、ひとつの大きな流れが出来上がります。
もちろん、そんな川の流れの行き着く先は“ひとつ”なんです。
そこには、たったひとつの価値観だけが待ち構えています。
そんな川に、情報が大量に流されていきます。
だから、偏った情報ばかりがアナタの目の前を通過しているんです。
そしてそんな流れに、みんな飲み込まれてしまう・・・
アナタが受け取っている情報は、常に均一とは限りません。
偏っている可能性が非常に大きいんですね。
けれども、気づかずにそうやって情報を受け取り続けるアナタの見解は、いつの間にかそちらの方に流されていくわけです。
二元論とは、情報発信者が情報を伝えるための1つの道具です。
また、情報を受け取る側にとっても二元論は、情報を理解するための1つの道具に過ぎません。
けれども、情報が氾濫しているこの時代では、道具を道具として扱える余裕なんて、なくなりつつあります。
いつの間にかアナタは、当たり前の様に二者択一を迫られる事になっていきます。
Aなのか、それともBなのか?
たった2つの選択肢だけを与えられます。
でも実は「こちらが正解ですよ。」なんて、暗に答えは用意されているんです。
言ってしまえばこんな状況は、知らないうちに答えを強要されているようなものです。
息苦しいはずです。
情報が今ほど多くなく、世の中がシンプルだった時代には、そんな二元論だって良かったんです。
圧迫感ではなく、単純な生きる指針だったんです。
生きる指針、行動の指針として、非常に受け入れやすかった。
市場も希望も、拡大していた時代ですから。
世の中そのものが成長していたんです。
でも、今の時代は違います。
市場だって、希望の入り込む余地だって、昔の様に拡大はしていきません。
現状の大きさのままです。
もしくは小さくなっている・・・
そんな時代に、逆に世の中のシステムは複雑に入り組み、情報は溢れかえっています。
そして欠点の非常に多い二元論までもが、アナタに向かって当然であるかの様に語られます。
そんな情報が、目の前を飛び交っています。
まるで、何かにたかるハエのように。
だから、一見自由に見える世の中が、息苦しく感じられてくるんです。
二元論は、知らないうちにアナタを縛っていきます。
そしてそんな二元論によって、アナタは振り回されていくんです。
そのことにアナタ自身が気づかなければ、アナタは自分で自分をどんどんと追い込んでいってしまいます。